おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

この一年

2007-12-29 09:39:52 | Weblog

 日本漢字能力検定協会が発表した「今年の漢字」は、例年のように清水寺貫主が墨痕あざやかに書かれた一字、それは「偽」であった。

 偽、偽、偽、今年ほど政界、官界、産業界、介護、食品、料亭に至るまで嘘固めが、発覚した年は初めてである。 元はと言えば、お金がすべてと言う考えが、はびこってしまい、それに伴う欲望を追求する余り、一つの嘘の上に、二つ三つと嘘が塗り固められて行ったからである。

 勧進かなめの国の財政が八百三十四兆円という超赤字で国民一人当たりが六百五十四万円の借金を背負っていることになり、ますますふえ続けるばかりだ。

 手を打とうとすれば、年金財政のごとく悪の温床が、次々と露呈し国民は老いも若きも裏切られる。ワーキングプアの存在や較差のひろがり、少子高齢化はなどと人並みに心を痛めていては、一票の投票権しかないこの婆様は、拳銃ならぬ取り越し苦労の毒気にやられてしまう。

 日本は高齢化率の速さで世界の三冠王となってしまった。もはや、わが身がどうなるか考えても、どうにもならない。

 去年の大晦日の日記を見ると「今年は本当に良い年であった」と、自分のおこなったことのあれこれ、行ったところの何処其処を書き連ねている。それを読みながら、毎年似たようなことをして自己満足しているのだなあと思った。

 全国民、年代という帯で大同小異同じようなことをして、人生を送っているのだということに気がついた。

 現役を引いた私の年代では、丈夫な者は、趣味、生きがい、趣味で自治体もそれを顕彰するので、趣味とその発表会が花盛りである。水を得た魚のようにエキスパートの域を超えてプロになって行く人も出る。

 私はそんな世相やら、自分の立場に立脚して、平凡ながら来年の決意は、「ものを見て、聞いて、感じる心」を主題にして未だクリアしていない病と死の年代へ、燃え尽き症候群で突入しても良しとすることにしようと思う。やんぬるかなである。

 三月にブログサイトを開設してから、読んでいてくだすってた多くの皆様、良いお年を!そして来年もどうぞよろしく。皆様方に幸多かれと願います。合掌。

  俳句 ○ 数へ日の髪くしけずる穏やかさ

     ○ 福寿草入れて寄植出来上がる

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正月の今昔

2007-12-21 11:41:57 | Weblog

 正月遊びの楽しさには、いろいろあるけれど、子供の頃は、「もう幾つ寝ると、お正月」と歌をうたって待ったものである。

  元旦の枕元には、長い袂の晴れ着と、新しい履物、一番嬉しいキンダーブックなどが、置かれてあった。のらくろ一等兵、少女雑誌と成長の度合いによって変わって行った。

 母の里へ行き従姉兄達と、いろはかるた、をしてあそんだ。時には男の子達が、屋根から竹馬にのったり、自転車のチューブをはずして輪だけにしたものに竹を当てがって、広い庭を回して走るのを、干し柿をたべながら見ていたりした。

 叔母たちは、里帰りをしたこの時とばかりに、昼までも夜までも、ひたすら寝ていて寝所から出て来なかった。

 女学生になった私は、終戦で世の中が、大きく変わって行く時、小倉百人一首を、一枚の紙に、あいうえお順に書いて、上の句を見ながら、下の句は、折り返しの中に伏せて、暗記をしたものであった。源平戦に熱を上げた年もある。

 実家では、私が一番上なので、幼い妹弟と,ぼうずめくりばかりをしていた。それなのに母が呆けて来た今、百人一首だけは完璧に読めるから、不思議である。頭まで届かずに目だけでよんでいる。いつ何処でと思う時、大学生の兄さんなど、やはり大勢の兄姉で育った母の生い立ちに思いを馳せる。

 今、我が家では、正月の集いの終わりに必ずかるたをする。今年は大学生と高校生の孫が来なかったので、嫁が詠み人で女性だけ五人でかるたとりをした。中学生がダントツであとの三人は積んだ札の高さが、同じであった。

 男性達の為に、麻雀卓でも、しつらえてと正月の度に思いながら果たせずにいるうちに、主人が亡くなってしまった。

[是れやこの行くもかへるも別れては知るも知らぬも逢坂の関]

 を現世のことと単純に解釈していたが、身近な人を亡くしてみると人生の無常、あの世の人とはもう逢えないと言う、二応目の解釈もしてしかるべき、作者の蝉丸は坊さんであるしと考えた今年の正月であった。

 あと十日で来る平成二十年の正月は、どんなであろうか。私は遊ぶことが大好きである。

  俳句 ○ 掃く者の身にもなれかし落葉舞ふ

     ○ 増えてきて万両屋敷に御座候

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師走の街のイルミネーション

2007-12-15 16:11:44 | Weblog

 12月1日に松尾芭蕉の誹風「蕉風」が名古屋で誕生したことをアピールする、蕉風顕彰名古屋俳句祭(中日新聞社後援)が、久屋大通公園内のテレビ塔下の句碑の前で行われた.

 素人を認識しつつも句友と参加した。後で県美で1200句からの選評があったが、箸にも棒にもかからなかった。

 終わって、中日ビルの絵画教室にいた妹とコンタクトがとれたので、彼女の予定の名駅のイルミネーションを見に行った。まあここ10年位の間に特に今年は名駅前が様変わりをしたこと!先日も息子が、(あの見慣れた駅前の女神の像が名城公園にいたぞ)と言っていた。

 イルミネーションはその日が土曜日なのと、お披露目初日ということもあって、ごったがえしの人出は、半端じゃない。一眼レフのカメラで撮影している彼女とは、はぐれてしばらく会えなかった。

 駅の屋根の正面には、中世の教会の絵ででもあろうか、ブルーや赤の電飾が、建物の集まりを細かに点滅させている。ブルーや白のツリーが光りオレンジの並木の瞬きも綺麗である。きのこの傘も、サンタもメルヘンチックで、高層ビルの窓に至っては、ガラスの面を幾何学模様に遣った大きなツリーが浮かび出ている。

 14日、先の顕彰祭に一緒に行った句友が、御園座のお芝居を誘ってくれたので、観終わってから、吹き上げホールの骨董祭に出店している弟の陣中見舞いに寄った。

 5時閉店ということで、「送って行くわ」と今池から長久手道路を走ってくれたが、道中は至るところ、イルミネーションの洪水で「名古屋は大阪や、岐阜に比べると元気だなあ」と感心していた。

 夕方後輩から入った携帯メールを未だ見てないが、きっとトヨタ資料館の電飾を歩く土産に、見に行こうと誘って来ているのであろうと思いそれは、明日のお楽しみとばかりに、読むのを後回しにしてレストランの木立に広々と飾られているベルや星やリボンの聖樹を私は眺めていた。

   俳句 * 煙突を信じていたとクリスマス

       * 第九はや聞こえる如き聖樹かな

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戦争初期

2007-12-06 10:37:36 | Weblog

 十二月八日、私の追憶では、その日、雪が舞っていた。通学の道すがら、上級生が、「戦争だ!!戦争がはじまった」と興奮していた。ただならぬ空気に小学三年生の私も、今迄身に覚えのない不穏なときめきが心情を占めていた。

 寒い校庭に全校生徒が集まり、校長先生から真珠湾攻撃のお話を聞き教室に入る時のことである。罪の無い低学年の私達は、さんざめきながら玄関からの渡り廊下を、片手に靴を持って並んで歩いていた。

 騒いで笑った拍子に先生の渾名を、てっきょう(本名であるが皆呼び捨てにしていた)と言ってしまった。聞きとがめた先生は、顔を真っ赤にして私を激しく叱った。教室に入ってから、又叱られた。

「僕が子供の頃あんたのお爺さんが村長で、いつも訓話を聞きましたよ」と言う理由で西村てっきょう先生は常日頃私に甘かった。それなのに今日はこんなに叱られてよほどいけない子なのかと滅入る事しきりであった。

 四年生にならないうちに先生は出征し、日本軍の戦果を華々しく大本営が発表する頃であった。田舎の春は、れんげ草が視界一面に咲き、こぶしの花も気の遠くなる程ぼかあと白を広げて暖かった。

 先生の家の高い白壁の先にあるダンガラ蜂の巣がバレーボール位の大きさで、私の家の蔵の軒にもそれがあるというひそかな共通点と安心感で輝いてみえていた。

 独身先生の戦死の知らせは、余りに早かった。見上げるダンガラ蜂の巣が、私には、人を寄せつけない孤高のものに見え、再会を裏切られたやりきれなさを生徒達にもたらせた。

 開戦で激昂された先生の気持ちを解りながらその後の人生を生徒達は積みあげた。

  俳句* 戦争の始まりし日や十二月 

    * 山茶花の散り敷く道の薄明かり 

 

 

 

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