去年の年末に自分史の会長のNさんの訃報について書き記した事がある。
今年になって、恒例の女正月を過ごして、ほっとしたある日、気になっていたNさんの「落ち穂集」なる自分史八冊を一日かけて読んだ。
改めて驚いた事は、平成二十二年一月の三冊目のあとがきの中ほどに書かれていたことである。
それは、「自分史のTさんからの紹介により、全く交流の無かったМさんのエッセイ集の編集を手伝う事になった。ブログに収録されたエッセイ、俳画それぞれ六十三編と加えて俳句百五十句を網羅する大作となった。このため三月から四月にかけて二十日間ほどこの仕事に集中した。自分の作品も含めて、今までの、いずれのエッセイ集よりも労力を要したが、完了してから非常に満足感を覚えた」とある。
Мさんと言うのは私のことである。Tさんはこの自分史の会長を私は俳句のA先生を紹介し合ったのである。
彼女はさっさと句集を一冊上梓して死に急ぐが如くあの世へ行ってしまった。
かくして内容はともかく立派な「おにゆりの苑」の一冊目が出来上がった。私は業者に依頼したかのように安易に謝礼をさしだしたら「必要経費だけいただくわ」と全額取ってはもらえなかった。
それ以来エッセー教室でご一緒をし七年の交流であった。
達人ほど謙虚でその時教わったのが始まりで、五巻、百五十冊の完成をみたがまるきり自分でクリアーしたような気になっていた。
その卓越した文章力と言い後進の為に残された文章教室のてにおはの数々と言い正に厳父の愛であった。
世にいう「孝行したい時には親はなし」の諺どおり、あの世から呼び戻して一言お礼を言いたいと無念の涙をこぼすことしきりである。
俳句 初夢の思ひ出せざる温みかな
大寒の入浴中に夫を亡くした私は、この季節何年径っても神経質になり独り居のお風呂は日のある内に済ます。
しかしありがたいことに、季節の移ろいは冬至がすぎると、僅かながら日が永くなって来ていて後十日もすれば寒も明ける。
早春の気配が漂い春めいてくる二月半ば孫娘の結婚式がある。
「嫁いで行ってやるのも親孝行の内よ」と一言多いばあさんは背中を押した事もあってその責任感から痛ましい気がする。
銀行の総合職をやめて遠距離恋愛の栃木の彼の許へ旅立って行く。
名古屋駅辺りで結婚式を挙げ兵庫県が実家の彼の親族も列席される。グローバルで目出たいことと祝ってやろうと心に決める。
こうなると私も、後数年間生きる心算で五年日記を買った。長年続けているブログにもせいをだすことにする。
その内、曾孫の二人目の顔が(一人はもう居る)見られるかも知れない。
俳句 蝋梅の昨夜の雨に濡れ居たり
正月もあっと言う間に十日が過ぎた。
初詣を元日に済ませて置き、家族の顔合わせの新年会を二日に「鈴のれん」で行った。あちらの孫こちらの孫と一人づつが欠席であったが、十二月の中頃に誕生餅を背負った曾孫が顔を連ねて十人であった。
それぞれが話しに花を咲かせて楽しく終わり、銘々自分達の予定に緩急自在に旅立って行った。
娘夫婦は次の日、来月結婚する娘の親の家を訪ねた様子だったが、有楽町で火事のトラブルがあったせいで、新幹線のダイヤが一日中乱れて難儀をした模様である。
私の特筆すべきは、七日に「にぎわい句座」の新年会を「藤昌」で行い新入会員も一人あって十三人が全員出席で嬉しかった事である。
先生もお元気で次々出てくる美味しい会席料理を頂きながら「蕪、南天、数の子、柚、春菊」の五つの即題を出されその内から三句を作句することになった。
その日は七草粥の日であり、それぞれ思惑があったらしいがそれが出ないのが不本意で面白い。
如何んせん最初は皆、頭が真っ白になって心に宛がない様子であったが、さすが修練の二年半に物を言わせて三句を提出した。
それをIさんが歌留多やトランプのように切って三句づつ配ってくれたので順番まわしにノートに連記した。開巻しますの言葉に従って自分が受け持った三句を読み上げその間に五句を選句した。
それ相応に良い句も沢山出て一連の批評も頂いて丁度予約をしていた三時には閉会することが出来た。
先生がNさんの俳句 「蕪蒸しだしに店主の心意気」を字の達者な男性のNさんに干し柿の乗っていた敷紙にさらさらと書かせ会計をするTさんにレジで一緒に渡すように言われた。
皆さんのおかげで楽しい句会であった。「めでたさも中くらいなりおらが春」の一茶の句を思い浮かべた人も有った事であろう。
私はこの先十二日の「無限図の会」の句会を済ますと十四日はさなげ温泉の「金泉閣」でゲートボールの新年会である。
二十六日は栄の「梅の花」で久しい間柄の文友達との新年会がある。
一月は毎年のことであるが、その年の出発に向けて抱負の多い楽しみな月である。
俳句 大原女の声やかぶらの白き尻
柚風呂や嬰つかむのに必死なる