おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

継 続 は 力 な り

2015-08-24 19:15:03 | Weblog

 よほど好きな事でないといや好きな事でも飽がくると、止めたくなる。A先生が十年でブログ千編入れたからもう止めようかなあとおっしゃている。
 私もその半分くらいの実績でも、人生に希望や喜びが無くなってきてネタ切れを嘆いている。
一昨日、年一回発刊の(九年目)「石火光中」と言うエッセーの製本をしたが労力を惜しまない緻密な主宰のもとで、土曜日、日曜日の予定を八人のメンバ ーで一日で百冊作ってしまった。年を経るごとにあちこちの知恵や技術が集大成して今年度は玄人そこのけの立派な出来栄えである。継続は成果である。 
 五時前に帰宅しほっとする間もなく自治会長から電話で竹の山の1・2・3組のブロックの出席者がないから行ってと言ってきた。最近人口が目ざましく増え、竹の山も五丁目までも名乗るようになり、「竹の山小学校」が新設された。この盆踊りも小学校の校庭で、校下外の応援もあってずいぶん大きい派手な催しであった。発展は力なりというところか。
 お隣の奥さんを誘って参加してスタッフ席のテントの中で、踊り次ぐ盆踊りを楽しんだ。9時に散会したが、夏休で喜んで参加している子供達が間違い無く帰れますように!
  子供を守るのも親の継続は力なりなのですよ。

    俳句   世話役も更けて踊りに加わわりぬ

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盂 蘭 盆 会

2015-08-15 23:38:55 | Weblog

 そんなに業が深い方でもないつもりであるが歳のせいか身体のあちこちが、悪くて「お盆までは」「盆までは」と意識して頑張ってきた。
 八月十三日生憎の雨模様であったが、息子と、一番下の孫娘がきてくれてその三人で、先ずは我が家のお墓へ夫の霊を迎えに行った。
 御霊も同乗させてその足で次は私の郷の墓参りに岐阜の関まで行った。
道中お供えにメロンの二個入りを買って積み込みお墓に着くと先ずは携えてきた供花を両親はじめ八基の墓の華立てに追加して周り、雨が止んできたので線香と蝋燭を焚いて我が家の近況報告をした。ほおずきの朱が映えて見栄えがよかった。
 実家に着いて仏壇に詣り郷の義妹やら先客の妹と、実家の主が人の暇な時には商売が忙しく、福井へ泊りがけで行っているし、歯医者をしている跡取りは、ちび二人を連れてお嫁さんの実家へ行っているとか、いつまでもだらだら喋っているので、息子にせかされて、テレビで放映もするので、有名になってしまった「辻や」の鰻が食べたくて舗道のアーケードまでもの行列を一時間並んで待った。
 辻やの向かえの妹夫婦もまじえて、裏の座敷へ七人貸切で通してくれたので、積もる話をしながら、たんのうして舌鼓をうった。
 帰りは息子が自分の娘を喜ばせるつもりか、私の母の実家が見える美濃加茂市を通ってくれて可児周りで帰った。
 就職して車にも乗る孫が黙って着いてきてくれたのが嬉しかった。
 妹たちはお泊りだったが、私は盆提灯もしつらえてある我が家の仏をほってをくわけには行かずお守りをして休んだ。身重の娘が帰って来ている長女もお供えや墓参りに,共に出入りをしてくれた。
 今日八月十五日は私の信心している宗教の何と今風で良いことか会館に四五百人も一同に集まり導師に従ってお経やら題目やらを唱えて先祖の冥福を祈り焼香をしてきた。
 夕方送り火こそ焚かないが、御霊を送るつもりでお墓に詣りにいくと直系の男の孫であろうか夫の好物の大関上撰がワンカップ供えてあった。これでまた一年安泰である。

     俳句  百年の生家に聞くや蝉しぐれ 

          鰻やの行列続き御殿生る

 

 

 

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立  秋

2015-08-07 19:22:19 | Weblog

 暑かった夏も暦の上では、明日はもう立秋。
やれやれ、無事乗りきったと安堵する反面、季節の移ろいは早くはかないものだと思う。
 今、連日戦後七十年、七十年と報道問題になっているのは広島に八月六日長崎に八月九日、戦争の相手国のアメリカに原子爆弾を落とされて壊滅的な日本となった原爆忌でもあるからである。
 国外でも勝ち目はなくて、その一週間後の八月十五日には終戦となった。
田舎にはプールなどなくてけっこう二キロはある大川まで歩いて流れのある川で泳いだものである。
 学校は夏休み、空には入道雲がむくむくと湧いていた。名古屋から避難してくるリヤカーや大八車も橋を通らずB29が空を覆はなくなったあの開放感は名状しがたいものであった。戦争は終わったのである。
 しかしそれからがいけない。常に流動的な世の中に大人でもない子供でもない十二歳の私は水泳のようには上手に世渡りが出来ない板ばさみの年代であった。
 よほどの持論でもない限り、多くの庶民は選挙もあり、国政もある為政者について行きまわりである。
 その後七十年の間に知り合った一家族のうち父親と長女の方は原爆に会って身体的に異状があったのか一生原爆にあったことを口外しなかった人がいる。父親は亡くなり長女の方は一代結婚せずじまいであったと、一家をなして幸せだった妹さんから聞いた。
 前触れもなく、一年くらい前に、尋ねて来られた事があったが、出掛けであったので今どこに住まわれて居るのか、電話番号でさえ聞き損じてしまった。
 その後語り部として、生きて居られるのかどうか聞いてあげるべきであった。夢や幻にしては、絶対にいけないことだと、つらつら思う戦後七十年の八月八日である。

    俳句  原爆忌平和の俳句捧げつつ

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