おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

 花火

2011-09-19 07:54:48 | Weblog

 ゲートボールの仲間のIさんが花火を見に行こうと車で迎えに来ると言うので二時間前から、しゃりっとした今風の浴衣を着た。帯に迷ったが母の形見の博多を当てるとするすると馴染んだ。
 もう一人の仲間のKさん宅に車を預け、見晴らしの良い田圃道まで歩いた。Kさんは家から見えるので出かけて来ない。
 田中の一軒の小屋の裏へ廻ると実り始めた稲を前に二人掛けくらいの小さい土管がまるで、しつらえでもしたかのようであったのでタオルを敷いて着物の二人はそれに並んで腰掛けた。
 間もなくどー
んどーんと目の前に花火が揚がりだした。空いっぱいに赤や黄や緑や青やピンクや紫やら色を変え形を変えした美しさに二人は言葉を失ったり、又は歓声をあげて呆然と酔い痴れた。
 お互い胸の内に去来するのは、孫の小さかった頃、夫ともども家族で見た折節の花火見物の光景である。
 孫を連れてのその頃の花火は、まるで頭からしだれ花火が降りかかるような鮮烈な思い出である。そのうち夫と二人になると、お酒を飲んでいる彼を残して、自転車で弁天池まで行って側にあった陸橋で知らない人達と遠花火を眺めたものである。
私達は今と過去を、道を埋め尽くしている観衆の内の若い人達は、今と将来を夢みてひと時の休息をしている
 花火の功罪はそれぞれで、川開き頃夏の初めに行な
われたり、大きい河川のないところでは、盆行事の一環として秋口に揚げられたりと各地様々である。
 この日進市は夏祭りに行われていたが緊縮財政の為に数年間は中止になったままであった。
 ぼおっと眺めている詩情の好きな私は去年から復活して揚げ始めたのを大層喜んだ。
 それが何と翌日の新聞に、でかでかと日進市での花火大会で福島県川俣町の業者が製造した花火を打ち揚げなかった問題で、市長と商工会の会長が二二日に川俣町を訪ねて、お詫びと今回の騒動の経緯を説明すると載っているではないか。原発の被害がそんな形で当市にも及んだのである。
 心ならずもそのストックした花火が八十発程あるらしいので来年も揚げることになるであろう。そんなこととは知らぬままIさんと来年を約束して別れてきた。お一人様二人づれの楽しい花火見物であった。
      
  俳句  花火見に母の形見の博多帯
   
      子の家とへだつ花火の裏表
      
      復活の花火に酔ひし人散りぬ

          

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 セールスレデイ

2011-09-15 07:33:31 | Weblog

 保険のセールスをしていた頃同僚だった同い年のSさんの訃報を、後輩のAさんがメールで知らせてくれて、驚いた。
  今年も手の込んだ絵入りの年賀状をくれていたのに。
彼女は覚王山辺りのお屋敷街の出でほっそりとした綺麗な人であった。担当先の企業も大手で、そこに届ける資料をいつも会社にいて作成していることが多かった。
 営業職を良いことに、パチンコ屋に出入りして「あそこの店のネオンを何本買ってやっていることやら」と嘆く私に「そんな事をして大切なお金を使うのは千円だって嫌だわ」とたしなめてくれていた。
 計らずも最近その当時のOB五人が集まってランチをしたのでお悔やみに行くか行かぬかは、その人達から連絡してくるであろう。
 その時のOB仲間の五人は年齢の巾が十歳くらいあって(Aさんだけが私とは親子ほど違う)そのうちの一人が最近佳い人が出来たと言うので見にいこう、来ても良いよと言うことになりそこから車で移動すると、なんと尾張旭から名古屋の千種区迄で、驚くことに一時期私が、しょっちゅう通っていた今は無い薬湯の隣のスナックであった。
 そのお相手の男性がテーブルを予約していてくれていた。
 やがて作務衣を着て現れた七十六歳と言う彼と古稀の彼女のからおけのデュエットにあてられっぱなしであった。私は色っぽい彼女に「彼氏を作るならもっと若い人にしたら!また死なれるよ」とそっと囁いた。彼女は夫を亡くしてまだ日が浅い。

 訃報のSさんとは確か定年退職のパーテーを「あさくま」でやってもらったのであった。その後も彼女は引継ぎとか何とか言って一年くらいは残留していた。
 他に私には入社の同期の友達が二人いて、苗字も一緒のМさんは、年齢は十歳近く下で、もうやめるもうやめると言いながら今もシルバー組で拠点が中区栄になってもまだ働いている。
 もう一人は男性で、若い人だったので私の後を何件かは引き継いでもらった。私が十七年勤務して定年になってから十三年になるので二人は三十年以上の勤続である。
 健在なのが何よりである。改めてSさんのご冥福を祈る。



  俳句  持ち株のさがりにさがり雷の果て
       
       俳画描きブログに載せて子規忌かな

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おはら風の盆

2011-09-05 15:16:25 | Weblog

 此処二、三年毎年八尾の風の盆が終わってから、しまった行くんだったと思ったりした。
 
そこで今年は一ケ月以上も前から旅行社のパンフレットを見て申し込んで置いた。
 
周りの人は行ったことがあると言うので、一人旅である。観光客が毎年一日から三日の間に、二十五万人以上も訪れるというので、土日を避けて初日の一日で申し込んだ。
 その日は二百十日で、昔から台風が来易い日だけど大丈夫かなあと心配していたらその通り今年はばっちり台風裡になってしまった。
 それでも初日の一日の集合時間は雨も降らず意気洋々と心弾ませて出かけた。
 バスは北陸自動車道を通り時間通りに富山駅に着いた。夕食の弁当を受け取って JRで越中八尾駅まで三十分を移動し、さあそれからが大変。
 街並を歩くのだけれど、パンフレットにある何か所もの踊りの会場への、それぞれのキロ数や所要時間が書かれていない。
 観光客をみこんだ夜店が立ち並び、車はご法度、タクシーも籠屋も居ない。
 八尾八幡社へ着くと丁度胡弓の音につれて踊りが始まるところであった。哀調を帯びた音色が夜空に消えて行き編み笠をかぶった若い女性が手をさし腰を振り叙情豊かに気品高く唄に合わせて踊り、はっぴすがたの男性や、童もついて 巡っていく。
 次々と踊り会場を廻って観るつもりであったが十三石橋で、おねりの行列が来るのを待っていると雨が降り出した。
 東京からと
言う隣に居た男性が、胡弓や尺八の繊細な楽器を保護するために雨降りには中止になると言われるので、橋のたもとの行灯から離れて傘をさして駅への道をとった。
 岡崎から来ていた二人連は雨が止んだのでもう一ヶ所見ることが出来たと言っていた。
 踊りの場は十一箇所もあって、それぞれの街の特徴を披露するのだとの事だから来年は夫の姉のKさんを誘って出直そうと思う。
 その義姉のご主人が富山県の出身であったのに、八尾の風の盆には行ったことが無いのだそうな。
 踊り手が地方の囃子に自から陶酔して輝いて踊りまくる(深夜になるらしいから一泊しなければね)哀切な行列を是非とも観たい。
 
車中泊のバスは下呂方面から下を走って翌朝六時前に名駅に着いた。
    
   
俳句  せつせつと泣くがごとくや風の盆

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