おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

私のシルバーウイークデー

2009-09-22 20:36:13 | Weblog

 世間では高速道路の利用料金が、千円になったせいか例年に無く、この連休をシルバーウイークなどと、もてはやしている。
 私のそれは、先ず娘が県美へ、アンドレ・ワッツのピアノリサイタルに連れて行ってくれた事に始まりいろいろあったが、ヒット版はボーリング会であった。
 五人の孫が、企画して、オバーチャをボーリングに誘ってくれたのである。
 四時半に妹のN子を車にのせたSが、迎えにきて集合場所の千種の、ラウンドワンへ車を走らせた。
 最初星が丘の筈であったが、大会を開いていて、受け付けないと言われて急きょ変更になったのである。
 ボーリングなんて、二十年も前にプロの中山律子さんが、いちやく有名になったころ、会社のイベントで、二、三
回やっただけで、その後衰退したものとばかり思っていた。
 知らぬのは私ばかりで、今また結構しずかなブームとのことである。
 孫四人ボーリングはそこそこの達人であった。この夏、富士登山をして、体力がついたというN子。「私、上手なんだけど」と名乗りをあげたU子は、中学時代ソフトボールの選手で県大会にまで出たくらいだから、肩がしっかりしているとのことである。
 ようす見の1ゲーム目は皆100そこそこの点数で、アベレージ90のオバーチャが良し良しと思ったのも束の間、若い者はだんだん成績が向上する。
 前日の新聞に載って居た車の衝突事故の同級生の通夜に行くので残念だけどと言って
、中途で帰ったSと1ゲーム目に、101の同点だったU子は3ゲーム目など180点も出している。
 Sが抜けたので女性ばかりの四人になってしまったが、ストライクが出る度に満面の笑みで私の掌にタッチしてきたりして、華やかに盛り上がった。
 次の日「筋肉痛で苦しんでませんか、次回は全員参加を目指そう」とU子からメールが入った。J子が参加出来なかったことにキャプテンとして心を痛めているのか。
 楽しかった私は、生きてなければ、生きてなければと、節をつけて歌っていた。

   俳句 稲たわわ満を持したる日和かな

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カ メ ラ

2009-09-13 16:51:33 | Weblog

 人は誰も一つや二つのトラウマを抱えて生きている。
 私のそれは三、四歳の頃、父よりも良く遊んでくれた大好きな叔父が町の中央に、写真館を建てて、お嫁さんをもらって独立したことであった。
 建築中に家に居た男衆の捨さんが何かの用足しに行くのに一緒に行くと言って聞かずに着いて行って、よく歩いたと皆が感心したことがあった。
 幼稚園へ行くようになると叔父も私が可愛かったと見えて、終りの時間になると、よく義母を迎えにこさせた。自分の家が良い私は嫌々ながら写真館から通ったり、さっさと家に帰ってしまったりして心配をさせたりした。
 かんじんの叔父は暗室にばかり入っていて、出てきたと思うと玉突きに行って居て、よく食事時に呼びに行かされたりした。
 やがて、叔父夫婦に子供が出来て私への鉾先は変わって行った
小学校の運動会や卒業式、村のあちこちの結婚式などに三脚を、自転車につけて行って仕事をしての帰りに通学途中の私に出くわすと、座布団もない自転車の前にひょいと跨がせて乗せてくれるので、痛いとも言えずに目を白黒させて帰ったものである。
 終戦後、
進行癌にかかった叔父は再開して間もない写真館と三人の幼い子供を残こして若くして亡くなった。
 私は大好きな叔父を写真に盗られたような気がして、世間でステータス化されて流行しだした、写真を写すと言う事を好きになれなかった。いわゆるトラウマである。
 そんな私が今、一眼レフのカメラを人から譲り受けて挑戦する気になっている。
 携帯電話機で写した俳画をブログに入れているのを色が暗い、不鮮明、とプロの方に言われ続けて三年越しになるので、一念発起したのである。
 娘に「私が薄型を五、六万円で見てあげるところだったのに」とか、男の孫に「あ、そのカメラ僕欲しい」などと言われると使いこなせずにくれてやったのでは気が済まなくなり、重いプロ級のカメラを肩に掛けて、「おげんきパソコンデジカメ講座」に通い出したのである。一通りの事を覚えたら軽い小型にしても良いと思っている。

  俳句 愁思かなあの世の旅に立ちし人

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゲートボール

2009-09-07 04:16:22 | Weblog

 子供の頃「熟慮断行」と言う煤びた扁額のかかった部屋で、毎晩それを眺めては寝ていた。
 それなのに私は思慮浅く人の話にすぐ乗る処がある。
この七月に膝の電気治療に行った整形外科医院で、四十年前に知り合いだったKさんに出会って、話をしているうちに、勧められるままゲートボールクラブに入った。
 
グランドゴルフの方が良かったのではないか、スイミングスクールに行った方が良かったのでは等と思い始めた頃には、もうすっかり、月水金と三十分もかかって通う、メンバーの一員になってしまっていた。
 今のところ未だ、スティックで打った球を、第一ゲートをくぐらせる事にやっきになっていて、それを果たすと誘導されるHさんが、指図される所へ転がすことに一生懸命である。
 ゲートボールとは五人一組の二チーム対抗で行う日本発祥のスポーツで、試合では、いかに得点するかより「如何に相手の邪魔をするか」に重点を置くかが問われるスポーツだと言う事を始めて知った。
 それに伴う採点が逐一あるのであろうが、審判が腕に着けた計算機に表示して行くだけで、自分の打つ
球に翻弄されているだけの私には、そうした軍師のような駆け引きや、読みは全く判らない。
 自分の持ち球で相手を打ちのめして、打ちのめして戦っている人を、早く自分の番が来ないかと待っていたり、アウトボールにされて、佇んでいたりで十時から十二時までの三ゲーム中、相手の球に当たらないのでスティックを振る回数が少ない。
 入会を勧められたKさんに「そんなに的確に思った所に飛ばすには、何年なすってるの」と聞いたら、二十年とのことである。
 恐るべし、彼女は九十歳で自転車でやって来られる。
 私は自分が、今更ながら日に焼けてオゾイ女になって行くのを見据えながら、ライフワークが時間貧乏になったことで、必修にしているこのブログのライテングをこれ以上落とさない事との兼ね合いを危惧している。

  俳句 ひと刷毛の夕茜して秋の暮れ
     アルプスの裾野の村の鵙日和

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする