おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

ア ク シ デ ン ト

2011-12-31 08:50:09 | Weblog

 この齢になると、アクシデントは連鎖的に起きる。
こちらのせいか、先方のせいか、概ね不幸も身の内、ハプニングと笑って済ませられる内はまだ良いとせねば・・・
 一週間分づつヨーグルトや乳飲糧を宅配してくるA店へ電話を入れた。
「今日午後家を明けるのですが、おせち料理は今日か明日かいつ届くのですか」調べてもらうと 「注文が入っていません」とのことであった。
「今年は確認電話が入らないなあとは思ったのですが、十月に注文書が箱に入れてあった週にすぐ記入してその箱に入れて置きましたが」と言っても時既に遅し。
 娘とデパートへ行った時など「私はもう今年もA店へ発注したから、あそこのが美味しいよ、貴女もそうしたら」などと言っていたのに。
 「ありがとう」とも言って来ないなあと二、三度思ったことがあったのに、日頃会話の無い宅配であれば、確認するべきであった。
 電話を切ってから段々と腹が立って来た。ままよ主婦歴五十云年自分のレシピの図入りのノートも捨てずにある。なんとかしなくちゃ。
 さあ美容院へ予約の時間に行こうとして、市町村の公共機関のバスは昨日までであったことに気づく。
孫に電話をかけると「いいよ」と買ったばかりの新車で迎えにきてくれて、ござらっせへ着けてくれた。
 カットと、お美顔をすませて、帰りは迎えの約束が息子と前から出来ていた。その足で アピタに寄り、予約のたらば蟹のハッポースチロール入りを取りに行っもらっている間に私は御せちの材料や買い残したものを、しこたま買った。息子はビールや灯油、米など重いものを、下ろして帰って行った。
 おせちは明日にしようかと思ったが夕御飯の支度をしながら根菜の煮しめを筑前煮のように細まかくせずに八品目くらいをざっくり切って旨煮にして、お重に盛った。
 漆の三段ものは新婚の思い出の重箱である。えい!一気に盛り付けてしまおう。数の子は数日前から水に浸して塩抜きがしてある。海鼠は俳句の一月の兼題なので三杯酢にしてある。うにくらげも真ん中に入れた。海老は頭に沢山塩をしてガスレンジで焼いた。
 紅白の板や伊達巻は切るだけ、先日信州で買ってきた、とら豆は非常に美味しかったけれど、今更煮るのも世話だから、買った袋入りの黒豆を詰める。にしんの昆布巻きも衝動買いをしておいたのがある。 お歳暮で来たお魚の西京漬けも封を切らずにある。
 装いに南天と、はらんを摘みに出た庭で、百合根を起こそうと鍬をふるったら、さすが足の脛が痛くなった。おおよそ四つのお重の格好がついてきた。
 年内には風邪を引かない筈の私が二十日からひどい咽頭炎を起こしてやっと小康を得てきたところである。
 それとても人とお茶をするのに、寒い朝、髪を染めて出かけた自分の不用心からの事。
 それにしても、今年は大きくは国の内外などもアクシデントが多かった。
明日一日はお墓参りと、お刺身、レデーボーデン、春雨、福寿草くらいの買い物をして、家の側面の拭き掃除を早めに済ませて、ゆめゆめ自転車事故など起こさないように今年を締めくくろう。

 俳句  万両の白も嬉しと庭を見る
      湯にひとり鐘の音を聞く大晦日

 

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 立 案 は 大 切

2011-12-23 07:44:44 | Weblog

  句友のKさんとクラブツーリズムのミステリー旅行に行った。
越後か駿河か滋賀が良いとの私の期待を裏切って、今度もまた去年孫と行った時と同じ、中央道から諏訪湖一帯の信州の旅であった。
 食事処も同じ中身も一緒。只去年は孫の車酔いに合わせて私まで食欲がなかったが、今回は最近食欲が落ちたと言うKさんを尻目に完食をした。
 クルージングは無くて諏訪大社に参詣し大太鼓をみた。二三年前の同窓会で来た時に
入った休憩所を覗いて、掻き氷を一緒に食べた亡くなったYさんの面影を思い浮かべた。
 ガラス工房で暫くショッピングを楽しみ来年の干支の竜
ならぬハイヒールの置物のお土産を呉れた。
 八ヶ岳に雪が舞い始め、山ろくのイルミネーションが輝くまで街を散策し、かといって寒いので喫茶店に入って、大阪の橋下市長に良く似た店長の入れてくれる美味しいコヒーやら紅茶でくつろいだ。テーブルに相席三人の内の一人は男性で、奥さんを亡くして四年とのことであった。
 冬至も近い冬の日は暮れなずみ始めたのでイルミネーションの写真を何枚も撮った。
 Kさんと私は同い齢で、どちらもお一人様の生活なので話もよく合い車中でも午睡もせずに一日中喋りっぱなしで、名古屋インターを出て、二十時半のバスに乗り換えて銘々家に帰った。
 降りる時土産に付いた一人付けの蟹、鯛、帆立と信州味噌で鍋をして遅い夕御飯をすませたところへKさんから電話が入り、弾んだ声で「あの蟹どうした?わたしお味噌汁にしたら、美味しかったわ、おかげで食欲不振を払拭できた」と喜んでいた。
 わたしの今日の付録の収穫は一寸話がはずれるけれど、朝バス待ちのところで「寒いのにまだ三十分もあるわ」ならばその向いのかっての職場へ暮れの挨拶でもと思って、勝手知ったる裏口から入るともう大勢が来ていて誰彼となく話が出来たことであった。
 Тさんに至っては席もそのままの位置で、とても十三年が経ったとは思えず、「お茶上がってて」と言われて時間がないからと遠慮をしたが、腰をかければ即現役の私だなあと思えたことであった。
 МさんHさんKさんも健在で、「おっ」と言った男性のGさんには思わず挙手の礼をして笑った。得がたい再訪であった。

 俳句  山合いに富士遠くみえ雪催ひ

      この家で死ぬてふドラマ白障子

 

 

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  師 走

2011-12-13 17:12:24 | Weblog

 今年三月十一日に東北を襲った巨大地震のせいで、その地方の人でなくても、自重した生活をした人は案外多いのではなかろうか。
 私も同様で、旅行は考えず、せめて日進市の文化協会が毎年主催する外国との文化交流の旅行には同行させてもらいたいと思ったが、協会員でもない私の知らないうちに来年は台湾行と決まり、締め切りも済んでしまった。
 
紅葉も見損なったので、来年に夢を託し一人の生活では走り廻ることとて無い師走をもっぱら読書で過ごしている。
  私は結婚前の五年程を片倉製糸に勤務した事がある。同社友の会の会誌が送られて来、かってこれを見て操業停止後三十年間もこの資産を管理し、世界遺産登録リストに登った片倉所有の富岡製糸工場を見に行ったことがある。これは私自身の中でどんな会社であったか改めて一貫性を持たせたいと言う興味もあったからである。
 今又、市の図書館が十一月に私がリクエストをして置いた念願の「富岡日記」を早速購入してくれた。この本は明治六、七年に殖産興業を担って働いた士族の娘の比類のない記録である。
 その記録を残したのは「和田 英」という女性で当時十八歳の若さで十三歳から二十一歳までの女性十五人を引き連れ信州松代から官営の群馬県にある富岡工場まで徒歩で碓氷峠を越え三日がかりでフランス人技師の許へ製糸技術の習得にでかけたのである。
 掲載されている写真からはいかにも利発な明治の女性が偲ばれる。事あるごとに使用者と自分達の仲の溝をまるく納める機知を持つなど、文明開化のなかで率先してこの仕事に携わった女性史として面白く読んでいる。
「和田 英」は子供が無く養子の誠一の勤める古河鉱業足尾銅山で暮らし七十三歳で亡くなっている。
 私は製糸工場の現場のことは、余り知らないが二歳年上で今飯田に住んでいるSさんにこの本を推薦しようと思っている。指導員だった彼女なら専門用語などがわかってより感激するであろうし、彼女とて師走とは言えお一人様の暇人である。面白がって読むに違いない。
 それにしても炭坑とか製糸工場とかの一次産業から電気機器や化学産業等の二次三次の産業に変わってしまった現
代、これからの人類の行く末はどうなって行くのであろうか。

   俳句 残照を留めて飯田の林檎かな  
      
       見通しの効く街筋や冬ざるる

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俳 画 の 師

2011-12-07 21:34:16 | Weblog

 過ぎてみるとあの頃は大層楽しかった。
 七年ほど前になるが俳句の教室で共に学んでいた一人
に「私の開いている俳画教室に来ない?」と誘われた。
 彼女は香久山会館で俳画を教えていた。夫が亡くなる前だったので、よく車に乗せて行ってもらって昼を外食して、一時にすべりこんだものである。
 彼女は毎月奈良まで習いに行って、そこから私と同い年の助師がヘルプに来ていた。
 先ず画が好きで暇さえあれば筆を離さず八人の生徒に一枚一枚手描きの手本を渡してくれていた。
 厳しい指導であったけれども、先生二人はぺちゃぺちゃとよくしゃべっていて掛け合い漫才みたいで、飽きさせなかった。
 教室の合間に書く画がユニーや香久山会館にとっかえ引き換え展示してあり和室には掛け軸の書も達筆なのを出したりしていた。
 子供は無くて旦那と薬剤師で結婚をしなかった姉との三人暮らしであったが、その五、六歳年上の九十歳近い我侭な姉の事を良く愚痴っていた。
 そのうち姉を施設にいれてあの世に見送りやれやれと思ったのも束の間でこんどは自分が脳溢血で倒れてしまった。
 美味しいものが好きでいつも顔色が赤かったから、血圧が高かったかも・・・
 救急車で運ばれた病院が私が月に一度薬を貰いに行く病院なので見舞い方々覗いたら大きな図体でベットに寝かされていて私が誰だか判らない様子であった。
 旦那が人に見せたくないと言っておられるらしいのに覗いて悪かったかしら。でも、[がはは]
と大きな声の闊達な、器も大きかった先生が懐かしかったのである。
私はと言えば、 教室が無くなってからは叱られる人が無く我流で画いているので少しも上達しない。何枚も何枚も丹念に画く先生と二枚画いたら嫌になる者との差は顕著である。

   俳句 残菊の白くなりても力あり
       
       待ちおりしボジョレ解禁石蕗の花

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十一月を振り返る

2011-12-01 12:16:27 | Weblog

 十一月一日 パルセィ瀬戸へ池田大作氏の九十八枚の写真展に誘われて車に乗せてもらって行った。
 十一月三日 直系の孫に「結婚おめでとう幸せな人生を展開してね」とメールをした。沖縄旅行の土産を携えて駆けつけてきた。
 十一月五日 娘の車で三越へ行ってジュエリーのお直しを受け取ってから前述の映画を観た。
 十一月六日 無限図句会に、バスを一台早く行って図書館に寄る。返本と借り入れ、購入のリクエストをして来た。 句会は「無花果」が高得点で市のホームページ「無限図」にに久しぶりで載った。
 十一月七日 医者に血圧のグラフを最近つけてないので叱られる。花梨ホワイトリカー180ℓを四本漬ける。一年間飲めるのではないか。
 十一月十二日 日進市の文化祭に行く。案内ハガキやら呈茶券やら電話をいただいたりした方のを見たりシャンソンを聞いたりして来た。
 十一月十五日 ゲートボールの定期大会。我が岩崎チームは準決勝で二位になったので四ゲームを戦った。
 十一月十七日 エッセー教室Nさんに上梓された「隠居の独り言」をいただく。立派な文章の数々・・・さすが。
 十一月十九日 名古屋市栄の市民ギャラリーへA氏の写真五人展を見に行った。
 十一月二十一日 文集「もめん」くる。Iさんの俳句が読売新聞に二句入選したとあるので、お祝い電話をした。
 十一月二十二日 井上ひさしの「一週間」を完読。
無名の修吉が権力と戦うあれやこれやの駆け引き、特に「少数民族の幸せを念頭において政治闘争を行う活動家になることを誓います」と言いながらご都合主義で二十三年後には、なんと「少数民族の利益よりは社会主義の大儀の方が大事だ」とうたったレーニンの手紙をもみ消そうとする側と、それを持っている修吉のその切り札の使い方の必死さを主題にしたものである。
 今迄井上靖は読んでいたけれどひさしは亡くなって始めて読んだ。
 十一月二十七日 六百円の土日切符でKさんとノリタケの森へ行った。彼女は則武が実家なのに、私は商売をしている時に日本陶器は大切な得意先であったのに二人共、灯台下暗しで始めての見学であった。
 アウトレットなどは見たけれど四千八百平方メートルもの敷地内をつぶさに周るのは大変で、又来ようということになった。
 十一月三十日 寿句会は三十一人中六番目の得点だったので、まあまあと言うところか。
十一月は自分なりに文化の月と思っているが書き上げて見ると相も変らぬ日常茶飯の繰り返しで、もう今日からは十二月である。ノリタケの森へ一緒に行ったKさんには相性と思われたのか十五、十六日頃のミステリー旅行に誘われている。

 俳句 生き居ればそれこそ勤労感謝の日

     小春日の飛行機雲に入りにけり
 

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