おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

梅 見 頃

2010-02-27 22:19:53 | Weblog

 Yさんと、ござらっせ(温泉)へ行った。車に乗せて行ってもらいながら
「梅見頃梅見頃と唄っていても誰も誘ってくれない」とぼやくと「私、
おととい知多へ梅見に行って来た」とのこと。
「平針の試験場も行ったけど未だ早すぎて、あそこは三月一日からが梅祭り」だそうな。
「良い情報をありがとう三日くらいに行くわ」と言うと
「三日は足助のお雛さんに行かなきゃ、私去年行ってきたよ」とおっしゃる。
 お母さんを看る為に再婚相手と別れたのであって、お母さんを見送ってみると、もともと嫌いな仲ではないので、方々へ連れて行って呉れるのだそうで結構なことである。
ござらっせの帰りに  
 「古戦場は桜だけの記憶だから、近くの長久手農業試験場へ行ってみようか」
と走ってくれたが門が堅く閉ざされている。土曜日のせいらしい。
 「家から市民会館まで街になってしまって前のように、梅が見られなくなってしまったのよ」
 と言ってわが家から北西を走ってもらうと昔ながらの梅畑が三箇所ばかりあった。
 土地の売れるのを待つ間は、梅を植えて農地で申請しておくのが、手間要らずで良いのだと聞いたことがある。
 車を止めてもらって鑑賞すると車内まで良い香りがしてきて頭で連想しているのとは大違いで短く刈り込まれているのも風情が良い。
 色は白やら紅やらあわいピンクやらで凛としていてまだこれからの旬の美しさである。家に招きいれた彼女と抹茶を飲みながら庭の緋梅を
「今年やっとこれだけに咲いたので毎日カメラにおさめてるの」と言うと
 [花が小さいねー肥料が足りなかったのかしら?]
といわれた。
 Yさんが帰ってから、ふっと、小倉百人一首の中に梅を詠ったのってあったかしらと気になりだして、カルタを繰ってみた。
 桜
は八首があるけれど梅はない。あのころ梅は珍重されてなかったのか未だ唐から入ってきて無かったということは無いだろうに。
 「東風ふかば匂いおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」と詠んで流されて行った菅原道真と時代背景は違っていたかなあ。又気になることが一つ増えた。
  俳句 薄氷の解けて行き来の人しげし

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非婚 晩婚

2010-02-20 22:40:50 | Weblog

 私はこの三月に喜寿を迎える。
六十五年前日本は世界戦争に負けたが、良く働く国民性であったので、或る意味経済戦争では、勝ち組となった。戦後そんな頃の親をもつ今の青年達は、苦労知らずである。昨今の経済不況に只只慄いていて非婚もありうる。
 所帯を持つ為の財産形成をしようと就労して貯蓄をしているうちに、そのお金と時間的な余裕を自分のために遣う個人主義の充足感に目覚める。婚期を逸することの始まりである。
 整った環境を欲するあまり、女性は三高を望むことになり、男性は女性を扶養するより自分だけの生活のほうが楽だと思うようになった。晩婚になるわけである。
 男女の仲もお互いをあまり知らない内に結婚していた私達世代の者の方が、やがて授かった子供の育児に一生懸命で民族も栄えてきた。
 男性は、自分の年齢が高くなっても若さや容姿端麗な女性を得ようとする。本当は妊娠しやすい早い時期に結婚して平均寿命の延びに合わせて、晩年のライフサイクルを一考したらと私は思う。

   俳句 春愁の形見の指輪薬指

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春  愁

2010-02-10 21:13:10 | Weblog

 句会で配られた去年の誕生日と今日の一句というNHK放送の二月一日から一ヶ月間の一覧表を見ている。
 
内容は 「家々や菜の花いろの燈をともし」木下夕爾から始まって二十八日「千年の昔のごとく耕せり」富安風生、と名句ばかりで味わい深い。
 誕生月が三月の私の母は平成二十一年二月に逝った。その生前に思いを馳せると、六人の子供をはじめ(ある意味子供も花である)沢山の花を咲かせた人であった。
 家の裏の花壇には、戦争中と言えどもいろいろな花が咲いていたが葵とかダリアばかりを思い出すのは終戦頃のことであろうか。
 父は庭師を入れる庭には草花を植える事は許さず、しんぱくや、松、槙、柏、紅葉などが枝ぶりよく植えられ、、花物は、燈籠の蔭に山吹と白侘び助、庭石の間と蹲に沿って石蕗の黄色だけが添えられていた。
 折角の二月に花をつける梅の木の三本も母屋から遠く三百メートル程離れた畑に見事な花を咲かせていた。
 その下には父の丹精をこめた、グラジオラスや芍薬が、妻への愛情表現なのか群がるように咲き、この花畑には母も百日草や、金盞花、矢車草や菊など、四季とりどりに植えていた。    五十歳前に、ひと回りも歳の違う夫に先立たれた母の晩年に、「どうしてそんなに花を作るの」と聞いたら、「お墓の供華を絶やさぬように」と嬉しそうに言っていた。その追憶の中にはあの頃の花々が去来していたのであろう。呆けてきてから車の中で誰に言うともなく突然「あんまり来たくもなかったけれど、此処へ嫁ぎまして」と無表情に語り、私をのけぞらせた。十年間に七つも葬式を出したと澄まして言っていたのに、母も澄ました顔で逝ってしまった。すべてに几帳面な母であった。
 
花に例えたら何の花が似合うであろうか。水仙やフリージヤといった感じではなく、そうだ、蔵の前に大きく枝を広げ見事な花をつけていた木蓮、学校帰りの私を迎えてくれたあの木蓮だ。いつも見慣れた木蓮の柄の大島の着物を着て笑顔をみせていた若い日の母の面影は木蓮がふさわしい。
 手にした印刷物
の中に「声あげむばかりに揺れて白木蓮」西嶋あさ子というのを見つけてその句から目を離せないでいる。

  

   俳句 春愁や人形の目のぱっちりと
      
建国の日を諾うや平成子

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 早 春 賦

2010-02-06 01:15:17 | Weblog

 ミニ句会が交流館できまっていた。
一時からなので、ゲートボールが終わったらその足で、自転車で走れば良いと心ずもりをしてスパークしていたら、携帯が鳴って急遽、大須観音の節分会へ吟行と変更になった。
 おっとり刀で駆けつけた地下鉄の改札でAさんの笑顔を見つけた時は正直ほっとした。
 今年はここのところ事のほか寒さがきびしく風が冷たい。Tさんは毛足の長い毛皮がつやつやしたコートである。
「いざさらば雪見にころぶところまで」の芭蕉の句碑のある境内では例年のように、紅白の幕を張った櫓の下で善男善女が押し合って厄除けの豆を拾っている。厄年の撒き手は一列づつの交代で夕方までも続けられる。
 私もさっそく、帽子で受けたが一回や二回ではとうてい齢の数だけは入らない。
 栄から七福神を乗せた車がパレードして来る沿道の喫茶店で、コヒー片手に句会を始めたが集中出来ないでいる内に鳴り物入りで行列がやってきた。
 喫茶店が願ったりかなったりの入り口近くであったので、Aさんは表に出てカメラのシャッターを切っていた。
 一年が如何にも早いと言う話から、この方、先日の中日新聞の日曜版の飛鳥圭介タイトル「光陰」年齢を分母で一年を分子にして何日の長さになるかを実感するとの説に「生き方次第で充実」と意義を唱えて一年引く年齢×充実感係数(生き生き暮らすは1.2目的なしの人は0・8)
と言う方程式を夕刊に発表したとおっしゃる。
 飛鳥圭介から叱咤と受け止め御礼申し上げますとの葉書が来たと見せてもらった。
 いずれにしても充実感係数ゼロの万年飢餓児の私には机上の空論である。充実感係数の
測定方法が判ら無い。
 いっそ早春賦を声張り上げて歌ったほうが単純に充実感が増しそうな気のする節分会、立春の前日であった。

  俳句 囃しつつ豆撒きせかす観音寺

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