おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

命名ということ

2007-10-28 23:17:14 | Weblog

 パソコンをいじりながら、テレビ放映のスタジオパークを、ちらちらと見ていると、「女性の品格」という著書を出した坂東万里子さんが、自分の子供の名前を「ときじくのかぐの香の実のとこしえにいや栄えませ花も実も具し」の古典から、かぐみとなずけたと語っていた。

 子供が誕生したら、二週間以内に、戸籍法施行規則を満たし社会通念上問題の無い名前をつけて、出生届けと共に役所に届け出なければならない。一億人居れば一億人のエピソードがあり先年受付を、拒否された悪魔という名前やら、今回知った一二三(ワルツ)七音(ドレミ)と言うようなユニークな名前をつけたがる親もいる。

 私は六人姉弟であるが、自分の記憶があるようになってからは、その都度父の机の上には、生まれる一ヵ月くらい前から、幾つもの名前の候補が、紙に羅列されていた。「四柱推命」を考え合わせていたのか、単に画数だけの事であったのかも知れないが,書かれた名前にはそれぞれ注釈が書き込んであった。四人姉妹上から淑、玲、経、澄と下に子がついて画数は、「経」以外は偶数である。字の持つ意味には重きを置いていたのであろう。経子と書いた奉書を貼りだした時父からうんちくを聞かされたが、私には関心の無い事であった。

 自分の子供の時は長女に由美子とつけたかったが、姑に美と言う字をつけると名前負けするから、佳代子にしたらと言われ浄瑠璃や芝居じゃあるまいに[おかよ]なんてと同じ「かよ」なら、加える世代の子にしましょうと加代子とつけた。長男は夫が熱田様で命名してもらってきて、今もその和紙に書かれたものは臍の緒と一緒にしまってある。そのせいか息子は自分の子供三人共、熱田神宮で命名してもらっている。俊、法、順と平凡な字であるが①子供の幸福をねがう②物心ついた時本人が嫌わないもの③姓名判断上画数のバランスがとれているものと吉運名の理由にかなっているとみえる。

 皆健在で居てくれるそれぞれの名前に私は感謝している。

  俳句 * 木犀のほろほろ散りて髪飾り

       

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三つ池(御嶽山の北)

2007-10-21 11:27:13 | Weblog

 岩崎地区は、日進市内の北西部に位置していて、標高130メートルの御嶽山を頂点として、三方に他の丘陵が連なっている。これらは70メートル以下で傾斜し名東区や天白区、東南に至り平地となる。

 名古屋から越して来て40年になるが、折りしも田中角栄の「日本列島改造論」が華やかな頃で、道路が出来ればその周辺は待っていましたとばかりに変わり、此処も東名高速道路が走っているので住宅団地が山の麓や中腹に出来て丘陵の様子も変わってきた。学校も出来るので学園地区の様相もなしてきた。

 その御嶽山の続きの北の山の中に、千坪くらいずつで上中下と三つにわかれて池がある。此の池はもともと農業用の溜め池で、平地にある弁天池に灌がれている。

 その弁天様をお祭りした大きな池も、瀬戸大府街道が2車線になるとき埋め立てられて縮小した。

 クルリンバスの北コースに乗ると、この池の二つの間をバスが通る。私は必ず中腰に立ち上がって、池を眺める。春になると蓮の葉が池の面を覆い始めて、初夏から夏に、綺麗な花が咲き出す。手を加えないので大きかったり小さかったり黄色やピンクで誠に綺麗である。土地がらからか眺めて立っている人を見たことが無い。

 いつも同じ場所に一人の爺さんが釣りをしている。一度下りて何が釣れるのか聞いてみたい。鯉、はえ、鮒、もろこ、うなぎ、ブラックバスではあるまいなどと、思っている内に今年も又果たせずに、末枯れてきた。

 そこまで行こうとすると立入り禁止区域の札が立ってないか心配である。又その場所え行くには、かなり松の木や、笹や、しょうぶや、雑草を掻き分けて歩かねばならない。二昔も前に近所の女の子と桜の下の獣道を歩いたことがあるが、今度は紅葉を眺めて三つ池の周りを一人で歩こう。

 かっての女の子は青年を持つ母親になっている。

 俳句 * 釣り糸を垂れて蜩聞くばかり  

    * モネの池と思ひ居りしが末枯るる

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私の原風景(もの心ついた頃)

2007-10-12 21:46:20 | Weblog

 今迄、私の人生の原点は、十二歳の軍国少女が泣いた終戦日だと決めていた。

 しかし原風景となると、農地解放以前の生い立ちにさかのぼらなければなるまい。

 父と母とは、美濃の郡長同志の子供である。母の姉が嫁いでいて病死をしたので、後添えとして、女学校中退で母が来ている。

 秋の収穫時には、米俵を積んだ大八車が我が家の前に並んだ。私は洋館のTちゃんの渾名で呼ばれていたが、母屋の横に二百坪位で、でんと建てられた三階建ての洋館に3歳頃まで住んでいたからである。

 母は十年間に七つも葬式を出したという。芝居小屋のk興行十六銀行になった農業銀行、14年間の村長などに携わった通称お髭さんの祖父が亡くなって母屋へ移ったのであろう。

 人力車が家の中まで入り三味線のお師匠さんが、あがりがまちに白足袋で移っていたのを幼児の目の高さで覚えている。離れでは大祖母や叔母がべんべけべんとおさらいをしていた。お芝居について行くと提げの三段のお重が運ばれてきていた。

 父は縁側の籐椅子でビールの栓を抜くと、幼妻の為にヴァイオリンを弾き、浜千鳥や埴生の宿など二人で、唄っていた。打ち水をした庭の緑が濃かった。軒には丸い籠にカナリヤがいて犬の太郎も猫もいた。蔵の裏の道具部屋には、作男の捨さんが、子守のねえやは終戦間際迄いた。

 叔父が写真館をしていたので、お稚児さんや幼稚園の様子も、沢山撮ってもらってあるが、日増しに戦争色が濃くなって、B29が洋館めがけて爆弾を落とすと町の人が言うので父は壊す決心をした。

 壊れたら終戦になった。

  俳句 * 解放の不在地主や稲穂波    

     * 子供等は木にぶらさがり秋惜しむ

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一期一会

2007-10-04 19:22:13 | Weblog

                                                      

  一生の中に、いつたいどれだけ人との出会いがあったであろうか。

 日常生活を送る上でいろんな方との縁が出来、物、自然、時間との出会いなど、人生とはその時々に必要な人と、必要な場所で必然的に出会えるように出来ている。

 自分を高めて行こうと、向上心を持ち周りを思いやることで、信頼関係や愛が生まれる。

 一期一会とは、千の利休の弟子の山上宗二という茶人が、「その心は生涯に一度しか会うことがないと思えばその一度にすべてを賭ける。短い出会い程その一瞬に心の絆を結ぶ。敬って畏るべし」と言っている。

 私はもう少し軽い意味で使っていた気がするが、本質的にはそのように解釈していた。

 最近はインターネットの世界で、情報や知識を簡単に得ることができる。しかしインターネットでは、絶対に得ることの出来ないものは人と人の出会いを大切にすれば、それをとおして出来る現実の体験と言う貴重なものや、良い人に出会えることである。そのことを、若い人人に伝えたい。 

 先ごろあった、いい歳をした大人がサイトの仮想空間で互いの人となりも知らずに出会って、真面目な若い女性をあやめてしまったことは、あってはならないことである。

 かといって日日人類はめざましい進化をとげていてお茶一つに例をとってみてもコンビニへ行けばあらゆる種類のものがあるし、生活様式の変遷によっても、言葉の死に態は出てくる。 

 でもこの一期一会の哲学は人生王道の進み方であるから、受け継がれ語りつがれる四文字熟語の諺であろう。

 差し詰め私も自分が今此処にいること、自分自身に出会えたことに、感謝して地に足をつけているあいだは、お天道様に恥ずかしくないよう今更ながら自分は何処から来たのか、なにを考えているのか、何が出来るのかと自分探しをすることにしよう。 

    俳句 * 草の実や文の生まれし露伴の居

      * 地震ありぬ釣月軒の破れ芭蕉            
                            

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