おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

 行 く 年

2013-12-30 21:05:22 | Weblog

 自称統計ウーマンの私がこの一年を振り返って見るに今年は格別これと言って面白いことは無かった。
 行った旅行は国内ばかり、同窓会、OB会などもマンネリ化していて「年々歳々人相似たり」と言う言葉どうりであった。
 マイナス面はいろいろあり、自分の医者通いは頻繁で周りの人の入院とかお葬式とか胸の痛むことが多かった。
 アベノミクスも私共年金生活者には、年金の目減りこそすれ何の効果もなかった。来年の消費税アップが再打撃である。
 ただ一つ曾孫の成長のめざましさは頼もしかった。若い祖父母夫婦が可愛い可愛いと連発して何の事はない私共の時の繰り返しリズムである。
 それにしても昔の人は「老いては子に従え」とは良く言ったものである。
 毎年これだけはと一年一回新年会を張り切って家でしていたのを「外でしたら」と言われ親甲斐も無いと思えたが、普段の私を見ていてそう言ってくれるのだろうと、料理屋へ十人の予約をした。
そうしたらこの年末、心も身体も楽なこと、八十歳まで一生懸命やってきたのだからまあいいかと思えてきた。注連飾りをつけたり鏡餅は供えた。
 年代の変わり目の不調を通り越すと体調も良くなると言われる。大病をしなかったことに感謝をして、やりかけの趣味のことは画龍点晴を来年に持ち越して行く年を恙無く送ることとする。

   俳句 枯れ菊のなお品格の華の色

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬  至

2013-12-22 20:16:54 | Weblog

 今日は二十四節気の内の冬至で昼間の時間が一番短い日である。
子供の頃は暖房も炬燵くらいのものであったから、毎日が随分と寒く、蔵の入り口あたりに南瓜がごろごろ置いてあるのも寒々とした風景であった。
 夏の最盛期から、幾つもころがしてあるだけだからか決して美味しいものではなかった記憶である。昨今では、スーパーで半分くらいにカットしてある南瓜を買って煮ると色も鮮やかで美味しく炊ける。
 それと今夜は句友のKさんに頂いた柚を浮かべて柚風呂を涌かして入ろうと思っていると娘と孫が二月の孫の結婚式の案内状を、亀やよしひろのお菓子のお持たせとともに現れた。
 二階でパソコンをしていた息子にも声をかけてテータイムになった。先週の日曜日に招待されて行ってきた曾孫の葵ちゃん(葵は今年の女の子の命名順位二番目との事)の誕生祝いの折の土産のユーハイムのバームクーヘンもあるし、林檎や柿はお歳暮できたのがある。
 葵ちゃんの一生餅をリュックに入れてしょった写真を見せながら、結婚する孫の、一歳の時やはり一升餅を白の晒しにくるんで襷がけでしょわされた写真を出して、未だこの間のようだと談笑した。
 帰りがけに仏壇に報告をしながら、娘が年内にはお墓へ結婚式まで首尾よくいけるようにお参りに来るわと言ったので私も掌を合わせて暮らして下さいよ、大抵の事は守られるから。と言うと孫が掌を合わせて居ても不幸な目に遭う人もあるよと言うので、婆さんらしくそう言う方はよほど宿業の強い人よと言った。
 本当に最近のニュースは凶悪事件が多過ぎる。
名駅まで行くからゆっくり出来ないと言う二人を送って私だけが勿体無いこんなにすがすがしい匂いの立ち込める色も美しい柚風呂にはいれてと今日一日に感謝をしてゆっくりとお湯に沈んだ。

  俳句 賜りし柚の香の満つ冬至風呂

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

  雪

2013-12-12 07:35:05 | Weblog

 私の生家は岐阜の中濃である。
結婚前職場の仲間に誘われて大日ヶ岳までスキーに出かけることになった。
 上司の二人と後輩の女性との四人だったが、当時失恋にめげていた私は出かけるのが、おっくうだったせいで、家の裏を走る越美南線の約束の時間の列車に乗り遅れてしまった。
 一つ後のジーゼルで北濃の駅についてからスキーを肩に、2キロの雪道を歩いて登って行った。道野辺の木々は樹氷が旭日にきらきらと照り映えて美しく清浄であった。
 当時昭和二十年代は未だスキー靴ならぬレインシューズがまかり通っていて私もスキーこそ妹の買いたてを借りて行ったが、靴はレインシューズであった。
 銀世界の中をゲレンデに着くと職場の仲間は「よく来た、よく来た」と喜んでくれた。
 男性の一人と後輩のKちゃんは信州の出の人なので、スキーはお手の物で右に左に滑べりまくりクリスチャニアまでこなしていた。
 私はリフトの順番待ちがまどろっこしいので、横向きになりスキー板を雪に斜めにつきたてて登っては滑っていた。麓の貸しスキー屋は繁盛していたが、スキー場には山小屋もなくて、お昼はおにぎりだったかお茶はどうしたのか、さっぱり覚えていない。
 そんな私をめがけてサングラスの男性がさーっと滑って来て止まった。見るとこの会社へ就職する前に通った算盤塾の先生であった。
 帰る頃になると時々吹雪いて来る雪が根雪に積もって道が固くなるので、こわごわ苦労をしていたら横を通り越していく、高校時代の先輩の二人づれの男性の一人がスキーの板と板の間に自分の板を入れて後ろから私を抱きかかえて駅迄滑り降りてくれた。
 思わぬ助け舟にあって仲間にも追いつき、終列車にも乗り遅れずにすんだ。
 就職して三年の間に算盤塾の先生は私の卒業した高校の先生になっておられた。いつの間に撮られていたのかセーターにショーちゃん帽子でストックの写真をパネルにして仲人さんを立てて結婚の申し込みをして来ていた。
 にべもなく断り、見合い結婚で名古屋へ来てしまったが、失恋の落胆とは裏腹にけっこうゲレンデでは齢相応の華が咲いていたのだなあと今になって思うのだが、その方ももうこの世には居られない。

   俳句 煤逃げといかぬ一人の侘び住い

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

訃 報   

2013-12-02 10:00:15 | Weblog

           ( そ の 一)
 
  十一月も終わりになって二人の訃報に接した。
一人は「あいち自分史」の会長をしていたМさんで知り合って七年目であった。
 九十二歳で耳が遠くなってもパソコンを使いこなし気さくな方で車はボルボだったので私は内心「ボルボのおじさん」と呼んでいた。
 精力的に「落ち穂集」と名ずけられた自分史を年に二、三回程発行し私のところには一巻から八巻までがある。
 その構成は① 健康一言② 語源の楽しみ③ 文章の豆知識、自習教室④ 小品集 と統一されている。
 文筆の達者な事は言うに及ばず外にも「蛍の詩」「隠居の独り言」とか御自分でまことに几帳面に製本されている冊子を入れると全部で十七冊もいただいている。
 中でも「隠居の独り言」の表紙は蔦に開きかけのブックとペンの絵が抜群である。
 小品集は正に生い立ちから最近まで戦争も含めて一冊の本になったら良いとおこがましくも私は思う。
 中には「うからはらから」と言う春日井文化が全国から募集して入選された傑作もふくまれている。
 奥さんが施設に入所されてからは熱心に介護に通われて、文章は私達と一緒のエッセー教室で「石火光中」に達者な作品を発表されていた。
 心筋梗塞で入院されて一ヶ月経ちリハビリに入ると聞いていたのに・・・去年は忘年会に車に乗せて行っていただいたが、今年はもうその姿はみられない。    
 さぞかし無念であったろう。製本技術を習得した文友一同が通夜に駆けつけたことは言うまでも無い。

        (その 二)

 夫の甥のT君六十七歳、心筋梗塞の訃報には、たまげた。
十月十九日に倒れた母を救急車でK病院に運び込んで、会社勤めの片わら帰ると必ず病院へ寄り車椅子に乗せて押し病気の進行を防いでやっていた。
 私達が見舞いに行った時はもう駄目かも知れないと思った義姉が随分とよくなり二十日に老人施設へ入れて一息つけたところであった。
 その義姉が車椅子で葬式に参列したのも痛々しい。
三人の子供の内喪主を務めた一番下の男性はまだ若く独身で勤務先の中国から急きょ駆けつけたとのことであったが、姉二人の夫と共に粛々と通夜と葬儀が営まれた。
 この夏の盆にはТ君と義姉が我が家へ来てくれてその際供えてくれた夫の好きだった大関上撰のワンカップを今朝冷蔵庫で見た時にはぐっときて涙が出た。
 この二つの葬儀はどちらも今流行の「香典はご辞退します」と言うものであったが、各々その人の人生の執着駅なので、人には知らせないと言ってもそれなりに伝わって、それぞれがそれ相当の人数の家族葬であった。
 Т君は交流のよくあった親戚なので、八事の骨拾いにも参列して初七日のお勤めも参ってきた。
 私は今胸にぽっかり空いた二つの穴に力を落とし愁嘆にくれている。

   俳句  寒空に夕ずつを見て通夜に行く

    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする