おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

家 族

2009-03-27 11:10:59 | Weblog

 世間では野球の地域別対抗戦(WBC)が、去年に引き続き2連覇を達成したと、日本侍、日本侍と喜びに湧いているし高校野球も全力で戦っている。相撲は12日目朝青龍が2敗した。北朝鮮はミサイルを発射しそうだとか、民主党の小沢代表が西松建設よりの政治資金規正法違反で問われている公設秘書の責任を取って引退すべきだとか、さらに自民党の平田財務副大臣が株の取引で規定に抵触して辞任したとか、等とスポーツは勝った負けたで、政財界はどこまで行ってもお金に纏わる政党のつぶしあいで喧しい。
 
そんな中私はこの「おにゆりの苑」を性懲りもなく、ブログこの2年目で本にしている。家庭印刷機をつかってがたんごとんと人に配ってしまうものを作る仕事に余念がない。
 
そこへ駐車場へ車を置きにきた孫が入って来た。お饅頭でお茶をと言うと
「僕ダイエットしてるから饅頭はいいわ」
と言い煙草に火をつけながら
「おばあちゃんに買ってきてもらった煙草を吸うとお腹がいたくなるんだよね」
「友達もアメリカで買ったのを吸うと痛くなるんだって」
「今度大婆ちゃんの49日にJТの煙草やさんが来るから聞いといてあげるわ、ヘルシンキの税関で買ったんだけど」
「え、それってソ連じゃん」
じゃそれは日本で買ったもの?」
「うん」
 
旅行に行く時
「マルボロなんて忘れそうだから、マルコポーロの金と覚えて置くわ」
 
と言って買ってきた土産の事である
「じゃ煙友するから一本ちょうだい」
「ダメ、ダメ又くせになるから」
「大丈夫、これだけ仕事してるとちょっと一服したいわ」
 
孫が帰ってから今度は息子が入ってきた。
「灰皿に立ててある煙草、誰の」
 [
ここまで、やったら吸おうかなと思って」
「だろう!俺も仕事の時若いやつにたまにもらって吸うけど、ないなら無いで平気だから」
 
と吸殻の方に火をつけた。
「よしてよ、くせになるよ」
 
と親子は、やはり同じ穴のむじなだとみえる。それがあると言うだけで脇腹の痛くなるこの仕事を、20時迄くらいは続けられそうである。
 
実は彼等には内証であるが、おととい、この印刷の紙を買って帰る時今年になって3回目自転車で転んで昨夜になってから、脳震盪らしき状態になって早寝をしたのである。そのうちお医者に行かなければ。

 俳句 咲きかけのちぢまって居る戻り寒

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 車 窓 の 風 景 

2009-03-18 09:26:00 | Weblog

 右に連なる山の峰はアペニン山脈だと思う。後方に、そびえるのはアルプスであろう。

 カレンツァーノからローマへ295キロを移動するのに日曜日で高速道路が混んでなくて130キロのスピードで走れると添乗員が言う。

 道路脇の貧しげな小さい石の家の屋根はさまざまな色をしていて、どの家にも必ず煙突がある。ストーブ用かと思ったら、物知りな方が、空気清浄機だといわれる。ジプシーの集落らしい。

 其処を過ぎるとトスカーナの田園風景が広がる。若草色の広大な畑には農耕をしている人の姿は見えずビニールハウスもない。絵に描いたように糸杉が僅かばかり、行儀良く並んでいて丘陵らしいのに牧畜もされていないようである。

 トスカーナならば、葡萄やオレンジ畑があってもよさそうなものなのに。そうこうしている内に頂上に寺院がみえた。あるいはサンピエトロ寺院の傘下の寺かも知れない。

 そこに射す太陽の光を眺めていると遠い異郷に居る旅愁が胸をかすめ、それを振り払うように、俳句を「春浅し」などとひねっている内に5日目と言う旅疲れからか眠ってしまった。

 とかくツアー旅行と言うとコンダクターに任せきりで、現在地の認識がないままである。日本では観られない、ちまちましていないあの風景を自分の目に焼き付けただけで、トイレ休憩の土産物売り場へと、皆に従って一斉に入った。

 俳句 道野辺の草は見慣れし犬ふぐり

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終 焉

2009-03-07 09:23:10 | Weblog

イタリア旅行から、娘二人と孫が帰って来るのを待っていたように九十三歳で母が亡くなった。
 
二十三日の早朝実家から、こん睡状態になったので病院へ連れて行くと連絡が入ったので、来るべきものが来たと支度をしていると臨終の電話が鳴った。
 
名鉄高速バスで駆けつけるともう枕経は終わっていて仏間いっぱいに敷かれたきれいな布団の母の胸の上には短剣が乗せてあった。
 
祖母の時これと同じ姿を見た私がぐっときて、はらはら涙を流すと、幼稚園前だった娘がけげんな顔をして訳を尋ねたのだった。
 やがて葬儀屋が来て四人で毛布の端を持って棺に納めた。通夜は檀家の寺で六時から営まれ葬儀は明けて十時から大勢の弔問の人人に送っていただいた。
 
和尚様がご主人には檀家総代を十六年もやっていただき亡くなられた時に奥様も戒名をおつけになっておられます。といわれ導師は二人であった。
 改めて父の亡くなってからの四十年間もの母のことを思う。七十歳迄は町の未亡人会長を、あの優しい顔でけなげにつとめて、それを辞してからは、さぞかし寂しかった事であったろう。畑仕事にせいをだしていた。
 
東京デズニーランドへ孫連れで誘ったとき「私はアメリカのデズニーランドへ行って来ておりますで、結構ですわな」と言った。遠慮だったのであろう、強力に誘えばよかった。
 赤玉ポートワインやネックレスやらと共にもらったアラスカの釣竿を持った人形は洋服が毛皮なので今も健在である。
 
最後の七八年は実家の義妹がそれはそれは、良く見てくれた。結婚してきて三十七年間一度も言い争ったことがないと言う仲で、それを褒めると「お母さんが良い人だったから」と言う立派な人である。
 
安堵の葬儀が終わり、早朝からきていた息子や娘と一緒に帰ったが、翌日少々お酒が入っているらしい弟から「十三年間居た猫のパタも、今朝死んだわ、御供して行った」と携帯電話が鳴った。
 
どの道私もこの歳になると、あちらの世界の知人が多くなってこの世とあの世の境が無くなってくる。今日、夫の墓へ、母がそちらに行きましたので宜しくと報告に行った。
 
私も母も三月生まれなので三月まではと思っていたのに如月に行ってしまった。とつおいつしているうちに買った花はもう明るい春の花であった。合掌。

 俳句 母逝きぬ白木蓮のまだ硬く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする