おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

  2 月 尽

2013-02-28 08:51:54 | Weblog

 今年の2月は例年に比べると事の外寒かった
何度も寒波に見舞われ雪も良く降り、1月同様の厳しさであった。季節風も北海道、東北、北陸と雪を伴って、まだこの2,3日前まで、滑ったり転んだりの人の姿をテレビが放映していた。
 私達は中部地方の恩恵を受けて、雪は降っても積もらず、あらぬ彼方から風とともに舞う雪に震えながら立春からこちらを耐えた。
 2月27日先週来の寒さから一挙に10度くらいになったので、いよいよ春到来を思わせた。そうなると私には先日来気になって居る事がある。
 それは自転車でのゲートボールの行き帰りに横目で見ながら数まで熟知している筈の池の鴨が2日間いなかったことである。最後に見たのは縁石にニ羽の烏を中心にして7羽づつ等間隔で蹲っていた。
 ついに水から上ったところを見たことのない私には、まるきり鳥語を交わす2家族に見えた。
 その日は寒かったので、ラーメン屋に飛び込んで暖をとり家に帰って句友のSさんに「池に鴨が見当たらないけど北へ帰るにはまだ早いでしょう」とメールをすると、「鳥帰るや、鳥渡るは季語の上から見て余りに句が多いから詠わない方が良いよ」とつれない返事であった。
 そういうことではない、体温のある生き物が怖い私が安心してみる事の出来る風景の一端なのである。
 幸い今日は朝の雨があがって暖かい。
この際つぶさに見てこようと、カメラ持参で出かけた。すると居るわ居るわ、32羽も大きな池にすーいすーいと喜んでいるように泳いでいた。2羽は水から低く舞い上がって下りた。先ずは安心。となると2キロ程はなれた池の鴨は如何しているのか気になりだした。そちらへ着くと、大挙しているが、淵にいても近ずくと慌ただしく池の真ん中へ移動してしまう。池のほとりの公園には未だ子供を遊ばせている親の姿は無かった。
 梅畑で親子が剪定していたので、「今年は梅もおそいねー」と言うと白梅の何本かを持たせてくれた。実を成らせるために、すぐるのだそうな。寒かった2月は終わった。

   俳句  難転ずと庭師南天剪らず去る

        色紙の絵飾りて老の雛祭り

 

 

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指 輪

2013-02-17 14:46:52 | Weblog

  或る朝カーテンを開けて、くくろうとしたら、指輪がこれにひっかかった。
台座を支えている片側三本の内の一本が折れたのである。よく見ると指輪が大層痩せていた。
 それもその筈、母からもらったのが、定年にならない内だったから、十五年以上嵌めっ放しで居た事になる。
 貰った折、物は何と聞くと、母は「そこいら辺にまとまってある中の一つで分らない」との答えであった。
 小粒の点点が、かすかに色も違い花のような体裁で大人しい感じなのでジルコンかと思いながらも気に入っていた。
 妹は大きな翡翠のものをもらって事ある毎につけていたので、一時羨ましく思った事もあったが、そういうものに余り関心の少ない私は、自分のもらった物を無造作に寝ても覚めても嵌めっぱなしでいた。
 抜け落ちないようにとその先に予防のために嵌めている金のリングは、夫の兄の形見で兄嫁が皆に配ってくれた物である。
 頂いて早々サイズが合わなくて電車の中で落としてしまったが、それを聞いた親切な兄嫁は今度は私のサイズの十一にして造ってわざわざ届けてくれた。 こちらは四十年くらい嵌めている。
 三越の宝石サロンへ持っていって「ジルコンならこの際捨てようと思うのですが」というと、それ専用の拡大鏡で見て「ダイヤの小粒が花様にデザインしてあるのですよ」とのことであったので修理を依頼して来た。
 変わったのをつける時は左指と決めていて、右手の薬指から、はずした事のないこの二つの指輪が、今迄私を守ってくれていたのかと、年寄りじみた発想をした。
 引き続いてその発想は、もうすぐ来る傘寿の集まりに祝いと言って声がかかれば、金のリングを配ろうと思うに至った。
 今迄子供達は一席設けて、古稀だと言っては花瓶をくれたり喜寿だと言っては電子辞書や花束を贈ってくれた。
 確か舅は喜寿や傘寿の折に扇子や抹茶茶碗に自分の名前を入れて渡していたように記憶している。
 若し声がかからなければ米寿の祝いの時でも良い。女性には十八金、男性にはプラチナでせいぜい百六十グラム位でお直し券をつけてなどと、ひそかに胸算用をしながら楽しんでいる。

 

    俳句 早春の明るき空にもうネオン

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 春 の 足 音

2013-02-06 16:39:48 | Weblog

                 俳句  ○  齢の差や曾孫の今日は宮詣り

 
 ぼけっとしていたら、豆撒きの日も何処へも行かずひたすら、佐野真一の「あんぽん」を読んでいて刻を過ごしてしまった。
 節分は朝から雨でゲートボールは休み、キャプテンのIさんから電話が来て小雨なら、練習がしたい様子なので、老人がそんな日にスティックを振り回してると世間体が悪いからと、からおけに行った。
 夜はスナックなのらしいが、昼間はコーヒーを注文して、二三曲歌って気晴らしが出来る手ごろさが受けて、中年客が絶えない。
 喉自慢の常連客が居る中で、Iさんも私の知らない歌を歌い、わたしも場違いな「早春賦」や「惜別の歌」や「旅の終わりに」などを声張り上げて歌って少しはすっきりした。
 五日は同じ1時から交流館で彼女はゲートボールの役員会が、わたしは句座があるので、待ち合わせてそこで一緒に昼食をした。
 「みかんはもう終わったのよ」と伊予柑を持ってきてくれた。
 句座は春待つ句が何句か散見できた。
   ○ 凍むる日は凍みて刻待つ野辺の草 Iさん
   ○ 春めきて空に命の延ぶを見し     Tさん
   ○ 身中に宿る鬼追ふ豆を噛む           先生
 等楽しく句会を終へて家に帰ると病院で療養中の妹から「脱走したい」と電話があり、お互い齢をとるとじっと刻を待たねば為らないよ。それは若い時のように心躍る刻でなくて、或いは死ぬまでの刻を稼いでいるのかも知れないけれど先ずは今の病を克服しなければ、梅のつぼみも開いてきたし確実に治ると信じて・・・二三日の内に行くからと電話を切った。
 
さしずめ私の7日は馬鹿げた保険の後始末に名駅近くの
会社の顧客サービス課まで行かなければならない。
 終身払いにしていたので、もう充分に支払い、今死ねば差損は少なくて済むけれど、九十歳までシミュレーションすると十年も掛け捨てを支払い続けなければならないので、払い済みの手続きをしに行くのである。
 もう人生に賭け事は不要である。あるがままに季節と共に日を過ごしたい。

             俳句  笹鳴きにゴンドラの人華やげり

 

    

コメント (2)
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