おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

句  友

2020-06-20 13:17:33 | Weblog
依然として新コロナウイルスの自粛は完全には解けない。その頃には快復しているであろうと、句友の誘いの予定が入っていた日は、梅雨であったが、お食事会に連れて行ってくれた。
 尾張旭市の「雅味」という食事どころである。道中車の中から四人と言って予約をされたが、着いて戸を開けると丁度十二時の事とて、満席であった。¥1200円ほどのランチを銘銘で頼んで、美味しく頂いた。
 私はまぐろの刺身、海老や野菜の天麩羅、長いものとろろ、茶碗蒸し、野菜の煮物、に味噌汁とたくあんの漬物だったかなあ、四人話をしながら、完食をした。
 車で乗せて行ってくれた男性一人のGさんは、自分では知っているであろう、いいところへ伴ってくれた。
 臨済宗の妙心寺、同光院と書かれている大きなお寺の無人の縁に腰をかけて庭園を眺めた。土塀の周りに描かれた白線の数でその寺の格式が判るのだそうな。
 石庭をかって二条城で見た時のような感慨で眺めた。並びの四礎とも苔むしている。二本の松も同じように枝を広げて格好がいいのを、Hさんは、松の針を見ながら肥料がよくきいているわと言った。背の高い泰さん木が終わりがけなのか、高い所に白い大きな花をつけていた。
 低いところでは乱れ萩も新鮮である。庫裡へ行く道であろうか山際の石仏の並んだ姿をカメラに収めた。
 人を案内して、これだけの説明のできる、この方の人となりはいつもながら、さすがである。
 帰りの道中、」清水屋の「べら」でおいしいコーヒーを堪能した。
 ちんちんという名古屋言葉の彼との無沙汰の二年余りの再会も懐かしかった。息子の結婚当初住んでいたマンションの前を通り、私が定年まで勤めた会社の前も通って楽しいドライブは満足、満足と終わった。
        俳句 石庭の苔むす四礎梅雨晴れ間
           泰さん木白き蕾や梅雨しとど
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     蛍

2020-06-01 09:18:56 | Weblog
娘の家に新型ウイルスの強制自粛で転勤に付いていけないでいる孫娘の家族が正月前から居る。
 秋にパパが単身でポルトがルに行き孫が曾孫二人を連れて追って行くはずであったのに半年にもなる今日に至ってしまった。
 誕生すぎた子と幼稚園年中さんの二人の発達はあれよ、あれよとめざましい。全国的に自粛の解けた日、私も交えて娘の主人と六人で折戸川へ「ほたる見物」に出かけた。
 二人の曾孫は蛍橋まで、歩くのに飛び跳ねて喜んだ。
 故里の八十年ほど前、私の子供の頃は夕方になると、毎晩のように「前川」へ竹箒を持って姉妹で出かけた。その川の岸辺が家の畑であったせいで、自分の家のもののような気でいた。近所の子供の数も多かったので、川沿いにぞろぞろ歩き飛んでいる蛍めがけて、一振りするなら何匹もの蛍が箒についていた。丹念に蛍を籠に入れた。雨あがりの草のしげみに光る蛍は、現実離れして幻想的に美しかった。一緒についてきた下の妹が川に落ち、二十メートル程流されたのも、気ずかぬ有り様であった。
 中耳炎の大きな子供を負ぶって母が難儀して関から岐阜の医者に通うのを、川に落とした私のせいではなかったかと、いまだに思っている。古里で電気屋に嫁いだ妹は今も健在である。
 日進の蛍は何年も前から有志の方が「折戸川に蛍を飛ばそう会」をたちあげて、幼虫から世話をして川に放流して、その積み重ねで今日があるのである。何年も前にお隣の長久手市に源氏蛍十三匹を分けたら、「ほとぎの里交流館」のビデオトープで養殖にとりくみ巻貝を食べさせたり放流をしたりして近年では二千匹が飛び交うようになったとか。老人のノスタルジアの賜物か。害虫駆除の農薬散布と都市化が進んで激減したのだそうな。
 六人は人々と共に蛍橋まで歩いた。安全のために川沿いに柵があって中へくぐれないのに、昔手にした触感でつかまえてやりたい私と、源氏蛍や平家蛍を一度手にしたい曾孫とであそこにいる。此処にも光っているとそれなりに、見て楽しんだ。
 はじめての蛍狩を外国へ行っても思い出してくれるであろうか。バイバイと娘の車で送ってもらって帰って来た。

俳句   街の人みな喜ばす蛍狩
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