昨日、わが家に一通のハガキが届いた。
宮城県石巻市に住む西島さんという方からだった。
ハガキには、こう書かれていた。
震災より五年を迎えます。
未曾有の事が起こり、五年後の今、
時間と資金と人の力でここまで来ました。
御支援、御好意、激励に感謝致します。
私共の暮らし、ほぼ元通りです。
防災に対して、常に意識して下さい。
日本中、安心できる所、ありません。
お元気でお過ごしください。
西島さんとは僕が20歳の時の自転車旅行中に知り合った。
出会ったのは北海道の帯広。僕より2歳程度年上だった。
お互い、一人で自転車旅行をしている者同士だったので、
たちまち意気投合し、そこから9日間、一緒に走った。
帯広から襟裳岬、苫小牧、函館と走り、
本州に渡ってからは、下北半島の大間崎、
恐山、そして野辺地というところまで2人で走った。
ある時、ボロボロの屋根付きのバス停で野宿した。
僕がベンチで、彼は下の地面で、寝袋にくるまって寝た。
夜中、僕がベンチから落ちて、西島さんをドスンと直撃した。
「いてぇ~~~」と悲鳴があがり、「ごめん~」と僕は謝った。
そんな思い出も、ついこの間のことのような気がする。
野辺地というところで道路は左右に分かれていた。
右へ行けば国道4号線で、青森市へ通じる道。
左へ行けば、三沢、八戸方面に続く。
彼は右へ行き、青森から日本海側を通って西日本へ向かう。
僕は左へ行き、太平洋側を通って仙台、東京から大阪へ向かう。
「…ここで、お別れだな。道中、気をつけてな」
「西島さんも、気をつけてね」
手を振り合い、右と左に分かれて、
9日間の「ふたり旅」が終った。
1969年(昭和44年)のことである。
それ以来、一度だけ大阪で会ったが、
あとは毎年の年賀状のやりとりだけだった。
自転車旅行当時は、東京に住んでおられたが、
石巻の女性と結婚されて、そちらへ移り住んだ。
あの東日本大震災が起きたとき、
ご存知のように、石巻市も甚大な被害を受けた。
僕はすぐに西島さんに安否確認のメールを送ったが、
返事は来なかった。とても心配だった。
すると震災から9日経った日、僕の留守中に、
その西島さんからわが家に電話があった。
西島さんは、電話に出た僕の妻に、
「ご心配をかけていますが、当方はみんな無事です。
電話がつながらなかったので誰にも連絡できなかったのです。
1階は全滅ですが、2階でなんとか生活できています。
『オレはがんばってるぞ~』と伝えておいてください」
と言ったそうである。
無事を聞き、やっと気持ちが落ち着いた。
僕はただ「どうか頑張ってください!」
とハガキを書くぐらいのことしかできなかった。
そして、震災から9ヶ月後の12月に、
西島さんからこんなハガキが届いた。
前略
先日、店の家屋修理が終りました。
あの日より9ヶ月が過ぎ、やっと完成です。
生活的には、かなり厳しいですが、
皆さんからのご支援に応える為にも、
奮闘努力・安定生活が我々の責務と自覚しております。
本当に有難うございました。
日々、寒くなります。御体、御自愛下さい。
来年は平穏な年であります様に…
それから、ほぼ毎年、3月11日前後にハガキが届く。
冒頭のハガキに書かれていた
防災に対して、常に意識して下さい。
日本中、安心出来る所、ありません。
…という西島さんの言葉を、
しっかり心に刻み込んでおきたいと思う。
函館から本州・下北半島へ向かうフェリーで。
西島さん(右)との唯一のツーショットです。
当時の西島さんは、見てのとおり、野性味たっぷり。
(1969年8月1日)