太宰治の生家 「斜陽館」。 40年前の自転車旅行の時の写真です。
右下の方に、小さく 僕の自転車が写っている。
2日前、腰痛が少しマシになったので朝のジョギングを開始したら、今度は左足首を捻挫してしまい、その日は一日中、満足に歩けない状態だった。ほんとに、泳げタイヤキ君の歌じゃないけれど、いやんなっちゃうよ~ って感じ。
今朝はだいぶ良くなったけれど、まだ少し違和感が残る。
(体、ガタガタですわ。とほほ)
さて、昨日の19日は、太宰治の生誕100年に当たる日だったそうである。
太宰の故郷、金木では、銅像も建ったことが報じられている。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/103293
「生まれてごめんなさい」とひたすら含羞の中に生きてきた太宰治が、
地元の街で銅像になる…。
彼は、あの世でどんな感想を持つのだろうか。
1909年6月19日に、太宰治は青森県の津軽・金木で生まれた。
玉川上水に身を投げ、遺体が発見されたのが1948年の、同じ6月19日だった。
僕は1949年生まれだから、その時は、すでに太宰はこの世の人ではなかった。
僕より40歳年上の太宰治が今年100歳になったのだから、僕が今年60歳であるのもそりゃ当然である。(意味わからん計算やな~。頭もガタガタですわ)。
…で、僕は、高校生の頃から、太宰治にかぶれ始めた。
太宰の小説を読むと、たいていの読者は、
「太宰を理解しているのは自分一人だけだ、自分だけの太宰、あぁ太宰…」
などという症状に陥り、「愛読する」というより「かぶれる」のが常である。
そして僕も、「太宰の苦悩がわかるのは僕だけだ」などと、当時の読書日記などを読み返すと、下手な字で書きなぐってある。
「人間失格」「斜陽」「走れメロス」などはあまりにも有名だが、僕は「津軽」が大好きである。その他では短編集が面白い。特に「お伽草紙」と「晩年」は何度も読み返すが、その度に、何らかの痛烈な衝撃を受ける。
「お伽草紙」は、日本昔話の「瘤取り」や「浦島さん」「カチカチ山」などのお話である。太宰流アイロニーがたっぷりと散りばめられて、実に面白い。
「晩年」は、デビュー当時の短編集だ(晩年に書かれた作品ではない)。
この中に数多くの短編が入っているが、「逆行」とか「ロマネスク」とかは、学生の頃、何度読み返したことだろう。読み終えると、なんとなく心の動きが自己反省に向かっていく。「僕は自意識過剰な人間なのだ」と、太宰の小説の登場人物と自分を重ね合わせ、自分を責めたりする。じわ~りと息苦しくなってくる感じなのだ。その息苦しさがまた快感に変わり、ますますクセになる…というふうな、奇妙な感覚にとらわれる。
まぁ、今は太宰を読んでも
「あぁ、僕は自意識過剰でピエロ人間なんだ~!」なんて思わないけれど。
………………………………………………………………………
太宰にかぶれていたころ、太宰の故郷である青森県金木町へ行ってみたいと思っていた。それが実現したのは、20歳の時の自転車旅行だった。
自転車旅行については何度も書いているのでクドイのだが、「芭蕉の『奥の細道』の旅の跡をたどりたい」、「日本最北端の地を踏んでみたい」などといういろんな目的があったが、「ぜひ太宰の生家を訪ねてみたい」というのも、ひとつの大きな目的であった。
その自転車旅行で…
東北に入り、秋田から十和田湖を経ていよいよ青森県に入るとき、十和田湖畔のあるユースホステルに泊まった。翌朝、出発の直前に、そこのオーナーが僕に「今日はどこまで行くのですか?」と聞いたので、
「金木町へ行って太宰治の生家に泊まりたいと思っています」と答えた。
当時、太宰の生家は「斜陽館」という名前の旅館になっていた。
するとそのオーナーさんは、
「おお! 君は太宰のファンなのですか…? それは素晴らしい」と言い、
「斜陽館の主人は私の恩師です。今から電話をしてあげます」
そう言ったかと思うとすぐに電話をしてくれ、さらにご自分の名刺の裏に紹介状も書いてくれたあと、太宰に関する本までもらってしまった。
そして、オーナーさんのご家族に見送られながら十和田湖畔を出発し、弘前市を通り、青森の金木町まで自転車で走って行き、斜陽館に着いた。
1969年6月30日のことである。
この後のことは、以前、ブログに詳しく書いていますので、ご関心とおヒマのある方(笑)は、御笑覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/domani07/20070621
なお、今は「斜陽館」は、記念館になっていますので、
ここで泊まるということは、もうできなくなりました。
http://www.goshogawara.net.pref.aomori.jp/16_kanko/dazai/syayoukan.html