僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

 桑田投手のこと

2008年04月05日 | スポーツの話題

選抜高校野球で沖縄尚学が2度目の優勝を飾った昨日、現役引退を表明した元巨人の桑田真澄投手がロサンゼルスから帰国した。生え抜きの投手として巨人に20年間も在籍したのは、この桑田だけである。僕は今の巨人には愛想をつかしているけれど、桑田全盛時代の頃までの巨人はよかった。応援にも力が入ったなぁ。

桑田といえば大阪府八尾市の生まれで、彼の実家はわが家から車で5分くらいのところにある。僕の長男の友達の兄が、桑田と小中学校の同級生だった。高校時代はPL学園のエースとして清原とともに甲子園で大活躍したのはあまりにも有名だ。

改めて調べてみると、PL時代の桑田は、1983年(昭和58年)夏から甲子園に春夏5回連続出場して、そのうち83年と85年の夏に優勝し、準優勝も2回。つまり5回のうち4回も決勝戦に進出しているのである。しかも桑田はピッチングだけではなく打撃も一流で、甲子園では6本の本塁打を放っており、清原に次ぐ歴代2位の記録を持つ。守備もうまかったし、桑田は昨日のインタビューで自ら言っていたが、まさに「野球をするために生まれてきた」男だった。

彼が活躍したPL学園は、富田林市というところにあり、これも僕らの住んでいる街の近隣にある。かつて甲子園の常連で、「PL」と聞けば、それだけで対戦相手は萎縮した。僕らも、高校野球が始まると、職場でも家庭でも、PL一色になるほど熱くなって応援した。そしてPLは、必ずその期待に応えてくれた。

富田林市にはPL教団が所有する広大な丘陵があり、むかしはそこに「PLランド」という遊園地があって、子供たちが小さかった頃、一家揃って自転車で遊びに行くのが、休日の主な過ごし方でもあった。8月1日には日本一と言われる規模の花火大会も開かれる。地域にとって、PLはひとつのシンボル的存在でもある。

PL学園の清原と桑田のKKコンビがいよいよ3年生の秋を迎え、それぞれの進路を発表した。清原はプロ入りを希望。憧れの巨人に入団したい、と明言していた。一方の桑田は、プロ入りを否定し、早稲田大学へ進学する、と表明していた。

その1985年秋のドラフト会議が行われた日。
僕は香川県の小豆島にいた。

「マラソンと痛風の怪しい関係」のところでも書いたけれども、ひと月前に痛風を発症しながらも、なんとか小豆島のフルマラソンに出場できるようになって、仲間と共にやってきたのだ。その小豆島マラソンの前日だったか当日だったか忘れたが、スポーツ新聞を買って読むと、一面にデカデカと「桑田、巨人が指名!」とあったので、ぎょぇ~っと、びっくりした。僕も同行のマラソン仲間もお互いに熱烈な巨人ファンだったので、この記事に驚くと共に、「お、桑田が巨人か!」というゾクッとするような喜びと、なんだか世間をだまし討ちにしたような巨人球団と桑田サイドのやり方に対する不信感とが複雑に交じり合った気持ちだった。もちろん、進学を主張していた桑田だから、他球団はどこも彼を指名しなかった。彼はすんなりと巨人に入団した。早稲田大学はこのやり方を猛然と非難した。

子供の頃からの憧れであった巨人に指名されず、記者会見の席であふれる涙をこらえることができなかった清原に日本中の同情が集まり、逆に桑田は、世間から大きな反感を買った。桑田はこのときから、ダーティなイメージがつきまとうようになった。

僕はむかしから、阪神ファンの友達や親戚から、
「お前はなんで大阪に住んでいるのに、巨人みたいなもん応援するねん?」
と言われた。それは…子供の頃から長嶋が格好よかったし、王が素晴らしかったし、彼らに胸をときめかせながら大人になったから、しゃ~ないやんか、と返事するしかないのである。
だから、高校野球は地元の大阪を応援するけれど、プロ野球は巨人を応援してきた。(重ねて言うが、現在は巨人を応援していない)。

そして桑田は、地元大阪の高校で活躍し、巨人へ入団した。
本来なら、大阪の巨人ファンにはたまらない進路である。
ただし、その入団の仕方が、いかにもまずかった。

どちらかといえば、巨人に入ってからの桑田は、あまり好きではなかった。入団のいきさつもあったし、女性スキャンダルも多かった。さらに、「投げる商売人」などと言われるほどビジネスに凝り、多額の借金を抱えるなど、「品行」としては今ひとつの印象があった。巨人での「晩年」は、衰えぶりが激しかった。
「桑田。見苦しいぞ。早よう引退せぇよ」
テレビでマウンドに立つ姿を見るたびに、そう思った。

それが去年大リーグへ行った。
日本で通用しない選手がなんで大リーグを…とあきれたけれど、その意欲だけは大したものだと思った。普通の選手には決断できないことだ。少し桑田を見直した。

春のキャンプから、桑田はパイレーツの投手として、評判を高めていった。
開幕メジャー入りが濃厚だったオープン戦の試合中に、不運にも審判と激突して足首を故障し、開幕メジャーはならなかった。しかし、彼は不屈の闘志を見せ、ついに6月にメジャーに昇格、夢の大リーグのマウンドを踏んだ。以後、中継ぎとしてなかなか味のあるピッチングを見せた。

しかし年齢から来る衰えは隠せず、結局2ヶ月ほどで戦力外通告を受けたけれど、力が衰えてからでもあきらめず、最後に大リーグのマウンドを踏んで小さい頃からの夢を果たしたことには、多くの野球ファンを感動させたに違いない。
心から拍手を送りたい。

昨日、帰国してインタビューに応じていた桑田を見ると、相変わらずモッチャリとした話し方だったが、幾多の風雪に耐えてきた男の心意気というものを感じさせられた。そして悔いを残さず野球人生に終止符を打てた男のさわやかさがあった。

またPL学園時代の桑田投手を思い浮かべてみる。
そして、昨日のインタビュー。
40歳になったばかりの男の、いい表情だったなぁ。

 

 

 

コメント (4)
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