めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

豊富な情報と疎い人間関係

2018-04-04 14:07:47 | 日本人

対人関係を楽しくスムーズに行うと言う事は、実に難しい事で
生きている限り、誰かと関わり合いを持って生活しなければならず
如何に、関係性を円滑にトラブルなく続ける事は至難の業と言えます。
しかしながら、多くの方が、いつも、何の支障も無く出来ていると思い
問題が生じる事は滅多に無いと思っています。

周囲を見渡しても、世の中の状況を見ても、頻繁にトラブルがある事は
まず考えられず、全く赤の他人同士でも、にこやかに過ごせているのです。
街中を歩いても、すれ違ういずれの顔も、目的に向かって、生き生きと
楽しげに見える物であり、一体、どこに、問題が有るのかと思ってしまいます。

所が、そんなんも円滑な対人関係でありながら、トラブルは突然やって来ます。
しかも、友人であったり家族であったり、一番親密な関係にある人達の間で
起こる事が多いのです。
更に問題は、親しい中で有る程、その争いは激しく、簡単には解決しない
複雑な問題に発展する事が少なくないのです。

私達は、長い人類の歴史の中で、如何に周囲の人達とトラブルを起こさないかを
考えて来ました。
小さい頃から教育を受け、他人との関わり合いの大切さを学んで来ました。
人を傷つけたり傷つけられたり、恨んだり恨まれたりする生活が、どれ程
人生にとってマイナスであるかを学んで来ました。

その為、近代国家に於いては、人々が平和に秩序正しく生きて行けるのは、
この基本的な人間としての役割を、誰もが理解しているからこそ成り立つのです。
所が、そんな知的に進歩してきたはずの私達でありながら、トラブルは
突然やって来て、それまで何とも思わなかった人と、よからぬ関係と成って
不愉快な毎日が続いてしまう事も有るのです。

何故、長い歴史の中で学んできた人間同士の関わり合いが簡単に壊れてしまい
火の無い所に煙が立って来るのでしょう。
誰もが、言ってはならない事、してはいけない行動を平気で行い、その事で
周囲の人や身近な人が傷ついても厭わないと思ってしまうのは何故なのでしょう。

例え恋人同士であっても、家族であっても、友達同士でも、その日は突然に
やって来て、まるで嵐の様にそれまでの関係を壊してしまいます。
特に親しかった中であれば、その諍いは熾烈を極める事が多いです。
他人であれば、それ程までに激しく争わないのに、それまで親しければ
親しい程、問題解決の糸口は見つけにくくなるのです。

人間関係は、しょせんそんなものだと、思ってしまえばそれまでなのですが、
出来るならその様なトラブルには巻き込まれたくないし、たとえ、巻き込まれて
出来るだけ早く良い関係に戻したいものです。
それでは、一体どの様にすれば、いつも楽しい生活を送る事が出来るのでしょう。

そもそも、道徳教育に代表される様に、人間関係を良くする為に学んだとしても
本当に人間として成長したかと言えば、そうとも言えないのです。
人は、戦争に代表される様に、普段聖人君主であっても、簡単に人を殺めてしまい
傷つけ苦しめる事を厭わないのです。
争っている人同士が、日頃からその様な凶悪な性格であると言うのではなく、
普段の生活に於いては、とても温厚で慕われる性格の人である事も有るのです。

私達は、たとえ、道徳教育を受け、他人に対する思いや豊かな愛情の意味を
知らされたとしても、時に、簡単に牙を剥き、人を傷つけるのです。
戦争と成れば誰もが、人を傷つけるのです。
つまり、人は、ジキルとハイドの様に、善と悪の人格を持ち合わせているのであり、
決して、どちらかに傾く事は出来ないのです。

人の心は、常に、自分にとってプラスかマイナスの秤が働いていて、その間で
日常生活が生れているのです。
これは、太古の生物であるアメーバの時から、自分の命を守る物と損ねる物を
判断していて、厳しい環境の中で、常に生き残れる選択をして来たのです。

この事は、人類に於いても同じ事であり、生き物である限り、自分の命に対し
如何にプラスに成るかという判断が前提としてあるのです。
当然、人間関係も、お互いがトラブルを起こさない事で、様々な快い影響を
考えての事なのです。
親しい中というのは、お互いに、相手が辛い思いをしないで、楽しい気持ちに
なる事を前提に人間関係が有るのですが、これとて、この関係が、お互いの
生きる為の利益に繋がるからこそ保たれているのです。

問題は、この利益を、自分だけのものと考え、更には、相手に対して、
不快な気持ちや苛立ちを感じさせる事です。
この時、多くの場合、自分の利益を考えるだけでなく、より深く相手を
傷つけ陥れる事で、自分の正当性と地位を高めているのです。
いわゆるマウンティングの様な差別行動を取る事で、益々お互いの
憎しみは高まるのです。

友好関係にあった時は、常に相手を立てる事に依り気持ち良くさせていたのに
争い始めると、まるで踏みつける様な言動と行為を行います。
この、人間の二面性こそが、人間の本性であり、どんな人の心の中にも
生まれた時から持ち合わせている性格とも言えるのです。


しかし、この二面性は、普段どちらに傾くものでは無く、その間で、その時の
環境で心の中を揺れ動きます。
大切な事は、この揺れ動く感情を、如何に的確に表すかという事です。
これこそが、対人関係に於いて最も大切な事であり、常日頃、人間の成長として
磨いて行かなければならないのです。


学校教育であろうが、道徳教育であろうが、日常的な対人関係であろうが
如何なる言葉を使って、その場に於いて、最も有効な関わり合いを造るか
と言う事です。
道徳教育の様に、様々なシチュエーションで使う言葉や態度をそのまま使えば
時に慇懃無礼となり、取って付けた不自然な言葉や態度で人の気持ちを
傷つけたり冷めさせたりしてしまいます。

現代社会は、昔と比べて、驚く程の情報に溢れています。
その為、あらゆるシチュエーションでどの様なふるまいをしたらいいかの
ハウツー的なお手本に溢れています。
例えば、面接に於ける服装や言葉、態度と言った事を書いた書籍は、
驚くべき数であり、そのどれかを使えば、その場は凌げたり上手く取り繕えると
多くの人達が考えてしまいます。

確かに、専門家が考える、あらゆるシチュエーションでのハウツーは便利です。
しかし、他人の知識や方法をそのまま使えば、テクニックばかりが前に出て
本人の言葉や態度とは思えない事が多いのです。
大切な事は、例え、様々な方法を知っていても知識が豊富にあったとしても
最終的には、その時に自分で判断し、反射的に言動や行動がとれる事です。

これこそ、対人的なトラブルを避け、豊かな人間関係を築く、大切な力です。
現代人は、昔の人に比べて、断トツに多くの知識を持ち、様々な能力に秀でています。
しかし、余りにも知識が多い為か、その使い方を知りません。
習った通り、まるでテストの回答の様に、間違いなく言葉や態度に示せば
目の前の人は満足すると思いがちです。
テストの答えは数少なくとも、実社会の答えは、無限です。
もちろん、親しい間柄であっても、自分の好む答えを期待しているだけでは、
いずれ、お互いに不協和音が発生する事も多いのです。

私達人間社会は、多くの事を他人に委ねなければなりません。
多くの人を介して、自分の思いが達成されているのです。
最初の判断行動が、物事の始まりであり、その後は、まるで玉突きの球が
次々に新しい球に当たって行く様に、自分の意思を繋いでいきます。

つまり、家族であろうが、友達関係であろうが、仕事仲間であろうが、
あなたの最初に出した言葉と行動が、世の中に伝わって行くのです。
最初の玉を如何にうまく受け取ってもらえるかで、その後の繋がりが
決定されて行くのです。
また、誰かから投げられた球を、上手く受け取る事で、その球を
どの様に扱って良いか、何処へまた投げたら良いかが解るのです。

お互いに、その時のシチュエーションに応じて、様々に変えられる
懐の深さと判断力が必要なのです。
人は、知的動物である一方、感情の動物であり、環境の変化で
心の在り方が日々変わって来ます。
良い人間関係とは、常に、自分の周囲の環境、相対する人の
その日のコンディションに敏感である事です。
親しい中であると、いつも同じ球を投げれば良いと甘えてしまい
悪球を投げている事に気が付かない事が多く、ある日突然、
関係が崩壊してしまう事が有るのです。

今の時代、ネットを通じて、世界中の情報が溢れる程入って来ます。
欲しい情報は何でも手に入る様になりました。
しかし、その情報に詳しくなるものの、自分の置かれている環境や人間に
疎くなっている人が実に多いのです。
例え、家族であっても、ネット情報には繋がっても、家族とは繋がらず
孤独状態にある人も少なく有りません。
素晴らしい知識も情報も、現実社会で生かせなければ、何の価値も無く
人間関係で孤立する事で、様々なトラブルを生んでしまうのです。