めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

都会は夢の場所では有りません

2018-04-12 16:08:10 | 日本人

便利で豊かな生活というのは、果たして、本当に私たち日本人にとって
幸せであるのか、考えなければならない時代に成っていると思われます。
戦後、世界の先進国に、追い付き追い越せとばかりに、日本中の人々が
必至で働きました。
三種の神器を買い求め、より広く豪華な住宅を求め、どんどん上昇する所得に
自分達が先進国へと歩んでいると言う強い思いを抱いたものでした。

バブルを頂点に、日本経済は失速したとは言え、いまだに、日本の経済力は
世界でも指折りのレベルであり、日本人の多くが、発展途上国に比べ、
遥かに豊かな生活をしています。
家の中には、日本経済の豊かさを表すかの様に、様々な文化的な品々が並び
どれをとっても、多くの海外の方の羨望の品と成っています。

街を歩けば、見上げる様な高層建築が並び、繁華街だけでなく、道路の下には
まるで大きな都市が在るかのように、様々な方向に地下街が広がり、
大都会は、地上も地下も、驚くべき数の人達で賑わっています。
確かに、この街の様子を見れば、日本が、長足の進歩を遂げてきたのが解りますが、
果たして、この街は、本当に、日本人にとって幸せをもたらしたと言えるのでしょうか。

誰もが、この発展の恩恵を受けているのなら良いのですが、目に飛び込むあらゆる
近代的な街並みや魅力的な商店は、溢れるばかりに歩いている殆どの人達にとって、
多くの場合、自分とは関係ない街を眺めている様なものであり、たとえ商品と言え
欲しい物は何でも手に入ると言う訳ではなく、欲しい物は数知れず有ったとしても
殆どの場合、自分の物とはならないのが現状です。

特に、若い人達にとって、大都会は魅力的であっても、自らの無能さを知らされ
思いを遂げさせてくれる街では無いのです。
夢を抱いて上京した者の、殆どの人は、挫折を味わうのが普通であり、都会が
若者達の為に在るのではない事を思い知らされることが多いのです。
それでも、メディアを通じて連日流される魅力的な都会は、地方に住む若者達を
引きつけ、毎年、膨大なる数の人が集中して来るのです。

今や、情報に関して言えば、都会であろうと田舎であろうと平等に手に入れる事が出来
知識として、都会の現状や日本社会の状態を知る事が出来ます。
かつての様に、都会に出なければ解らない事も、ネットを通じて幾らでも手に入れられ
経済的な格差は有れ、都会に住む人と地方に住む人達の物事に対する価値観は
殆ど変わらないと言えます。
欲しい物が有れば、ネットを通じればほとんど手に入ります。
となると、わざわざ都会に住んで生活しなければならないという意味は無いのです。

しかしながら、それでも、人々は、都会に向かいます。
例え、そこには挫折が有ったとしても。
何故、リスクの多い都会に人々は集まるのでしょう。
私も、東京に住むようになって40年に成ります。田舎に住んでいた時間を遥かに超え
今や、東京にいる事が一番落ち着くと言っても過言では有りません。
しかし、東京に居て、経済的に許されるなら何でも手に入るとはいえ、その事で
東京の魅力を感じた事は有りません。
手に入れられない物の方が圧倒的に多く、街を歩いても、殆どウインドウショッピングです。

考えると、田舎に住んでいる人達より、断然、心が病んでいたり生活に苦しむ人が多く
華やかな街並みに反して、都会人は、日常的に心が晴れない人達がとても多いのです。
この事は、自分の生活が苦しいとか欲しい物が手に入らないと言う事ではなく、
メンタルな面での欲求不満が募って来るのです。
華やかで物が豊かである事で、自分の心を誤魔化したり癒していると言った方がよく
膨大なる数の人が住んでいるとはいえ、都会は、相変わらず孤独の街と言えるのです。

中には、他人に干渉されず、自分の生活が守れると言って喜ぶ人もいるのですが、
人は、誰もが、一人で生きられる訳ではなく、プライベートはともかく、社会人として
誰かと関わっていなければ生きてはいけないのです。
とは言え、この関わり合いが、殆どの場合、利害関係で繋がっている事が問題です。
人も物も、自分にとって都合がいい時は深く関わり、興味が無くなったりすれば
あっという間に、捨て去ってしまうのが都会です。

その為、多く関わるには、自分の地位や名誉や財産と言ったものが大きな力と成り
都会で絶大なる権限を持つ人は、この外見的社会的な力がある人達なのです。
つまり、都会を中心に回っている日本社会は、この絶対的権限を持った人達の
思惑通り作られていると言えるのです。

華やかな街並みも、様々な遊興設備も、全て、経済的社会的に地位のある人たちが
自分達の生活をより豊かにする為に在り、そこで生活すると言う事は、彼らに
貢献した生活を送ると言う事に成るのです。
働いて多くの収入を得たとしても、それは自分の為と言うより、大都会を
維持するために貢献的に使われるのです。

自分の喜びとして消費していたり購買しているものであっても、その事で、自分自身が
本当に豊かになると言うのではなく、豊かな生活をしていると言う錯覚をしている
のであって、多くの人が、自分の価値観を、社会を動かす人たちの価値観に置き換えられ
紹介されたものを手に入れたり身に付けたりすることが、自分の幸せだと思い込み、
新たに提案されると、簡単にそれまでのお気に入りを捨て去ってしまう、消費経済に
貢献する事に成っているだけなのです。

より豊かな消費物品を手に入れる事がステイタスであり、幸せだと思っている日本人が
異常に多く、そこには、周囲の人や家族の存在はほとんど有りません。
より豊かな生活を手に入れたとしても、それは、外見的に豊かさを示すために使われ
身の回りの人達への還元とは程遠いのです。

この事は、人類が、太古の昔から生活して来た人間としてのルールとは逸脱していて
多くの人達と富や食を分かち合って幸せを感じて来たと言う、人間の長い歴史を
放棄した状態と言えます。
今や日本社会は、究極の個人主義へと進んでいて、世の中が、個人的な欲望を叶え
自己満足をする様に作られているのです。

物の価値観も、単に個人の価値観であり、所有者同士の比較の価値観なのです。
あらゆる人間生活は、比べる事で優劣を決め、より豊かな生活であるとされる事に
歓びを見出そうとします。
つまり、誰であっても、経済的に、社会的に豊かである事が人間的な価値であり、
所有する人間は誰であっても構わないのです。

簡単に言えば、物の価値が、人の価値と入れ替わったと言えるのです。
この事は、経済的な社会を目指す国々に共通の事と言え、より豊かな生活が、より豊かな
人格や人間性を示すとは言えないのです。
この個人の人としての価値を無視した社会形態が、日本社会に於ける様々な問題や
トラブルを発生させているのです。

地位が高ければ、経済力が有れば、我儘が許されると言う心境が、様々な職種に於いて
対人的なトラブルとなってマスコミを賑わせるのです。
社会的経済的な部分を取り除けば、本当に人間的につまらない、無能の人間がいかに多いか
と言うより、経済力と地位が有りさえすれば、どんな我儘も許されるとする日本社会が
多くの人々を苦しめるのです。

一度地位が上がれば、それを自分の価値と勘違いする方が少なく無く、選挙で選ばれれば
途端に高飛車になり、選んでくれた国民に後足で砂をかける様な行為を平気でするのです。
この問題は、個人的なものというより、日本国家が長きに渡って行って来た教育に在り、
国民を、守銭奴の様に育てるシステムを作った事に有ります。

子供達を学校に通わせ、様々な勉強をさせ立派な社会人に育てると言うのは建前であり、
現実は、競わせ、より消費経済を担える、優秀な個人主義の人間を育てているのです。
教育を通じ、メディアを通じ、消費経済の素晴らしさを教え込む事に依り、大人になれば
身勝手で我儘な日本人を作ってしまうのです。

都会に住む人も田舎に住む人も、メディアを通じて、より豊かな生活を行えば、
幸せな人生を送れると考え、豊かさの象徴でもある都会生活にあこがれるのです。
しかし、心の豊かさよりも、経済的に豊かな生活も求められる事から、益々欲求不満と成り
例え大都会で豊かな生活が出来たとしても、心の不安は消えず、豊かになれば成程
自分の地位や財産を他人から奪われないか、戦々恐々となって行くのです。

豊かになれば、多くの人がまず行う事は、自分の生活の場のセキュリティを増す事です。
他人との関わり合いを大切にして地位を成したのでない為、他人が信じられないのです。
アメリカ社会の様に、自らの身体をも、銃を持って守らなければ安心できないのです。
日本人は、そんな豊かさを求めているのでしょうか。
人を見たら泥棒と思えという社会を目指しているのでしょうか。

親切で心豊かな日本人は、次第に過去のものと成って、生き馬の目を抜くと言った
片時も安心できない日本人が増え続けるのでしょうか。
今や、経済格差は、基本的な日常生活をも送れない多くの日本人を増やしています。
生きる事だけで精一杯であり、一日中こまねずみの様に働いて、やっと自分の生活を
維持している都会人は幾らでもいるのです。
彼らは、そんな生活を望んでいるのではないのです。

しかし、現代社会が求めるのは、永久に続く一方的な利益の搾取です。
この不公平感が世の中の人達に不満感と挫折感を生んでいると言えるのです。
まるで、社会に貢献する為の働いている様な生活を送っている人が多く、連日目減りする
身銭に苦しむ若者達は実に多いのです。
現代社会は、豊かな人には便利で経済的に、生活苦に苦しむ人達には、苦痛と憤りを
与えているのが現状なのです。

成功者たちからすれば、努力をすれば誰でも豊かな生活が出来ると言いたげですが、
人の生活の良し悪しは、努力の差で決定される程単純な物では無いのです。
例え、何不自由な生活できる人達であっても、多くの国民が苦しい生活を強いられると
いずれ自分達の生活に大きな影響が出て来る事は明らかであり、目先の豊かさに囚われ
国民全体の豊かさを考えないと、国家自体が崩壊して行く事にもなりかねないのです。

今や、日本社会で考えられる殆どの政策が、豊かな人達の生活を基準にしていて、
国民全体に対する策では無いのが、いつまで経っても国民を苦しめる事に成っていて
何不自由ない人達の我儘と不義を生んでいるのです。
人の価値や幸せは、経済的な差で語るものでは無く、更には格差を生むものでは無いのです。
豊かさや幸せを、外見的なもので計ろうとすれば、人間は、人として進化する事無く、
単なる欲望の動物に成り下がってしまうのが落ちと言えるのです。