めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

国民の不安を拭えない日本の政治家

2018-04-02 16:49:03 | 政治

いよいよ安倍内閣もおしりに火が付いて来て、リーダーとしての末路が見えて来ました。
歴史的に見ても、いかなる優秀な支配者であっても、いずれ、終末を迎えるのが常です。
今の内閣が、特別の事をして来たとは言えませんが、一つの時代が過ぎようとしています。
しかしながら、新たなるリーダーが生れたとして、日本国民にとって、どれ程頼もしく
未来を期待させるものでは無いのです。

今の日本に於いて、誰がリーダーに成ろうと、世の中が良くなるとは言えず、単なる
首のすげ替えになるのではとしか思えません。
とは言え、今の日本人にとって一番の問題は、日本国にとってと言うより、日本人一人一人が
安心できる世の中が生れない事です。

潜在的に潜む日本人の心の不安を、一体誰が取り除いてくれるのか、日本人は、物心がついた時から
死ぬまで、いつも何かに怯え、その不安から逃れようと勉強し、仕事をし、老後を必死に生きているのです。
世界的な先進国と言いながら、心が癒されず、どんなに豊かで便利な暮らしをしようと、その外見を
取り除けば、まるで、毛をかられた後の羊の様に、不安に震えているのです。

本来、豊かな生活というのは、何事に関しても不安を感ずることなく、人としてより成長できる
幸せに満ちたものでなければなりません。
経済的な豊かさは、この満足感をより高めるものであるはずなのに、どんなに生活を豊かにしても
心が安らがず、より不安を増している日本社会は、明らかに、人が求める社会では無いのです。

特に大切な事は、国民全体が幸せを感じなければならないと言う事です。
今や、殆どの国民が生活に不安を感じ、豊かであるはずの一部の富裕層ですら、将来に不安を
感じているのです。
一般に、豊かな生活が出来ている人達は幸せであると思いがちですが、豊かな人とそうでない人の
差が極端に成れば、社会全体としての不安度はより高まるのです。

生活レベルが低い人から多くの利益を得たとしても、社会全体を円滑に動かしていく為には
消費者たちの生活レベルが安定する事が絶対必要と成るのです。
つまり、消費者として成り立って行かなく成れば、当然、消費経済国家は成り立たず、
それまで豊かな生活を送っていた一部の人達も、収入は激減して行くものであり、
消費者を守るために、膨大なる資金を出費しなければならなくなるのです。

現在に於いても、企業は、法人税という形で、膨大なる税金を納めているのですが、
国が国民を守れ無いとなれば、自分達を生かす為にも、富裕層は私財を投げ打たなければ
共倒れしてしまう事も有るのです。
より高齢者が増え、医療費や福祉の為の費用がかさめば、国費は激減し、財政は益々赤字となり
その分を更なる収入源として法人に頼る様に成るのです。

つまり、働けない国民が増えれば、企業とて安穏として構えて居られないのです。
国民が飢えず、生活に困らないと言う事が、実は、企業を成り立たせていく事に成るのです。
現代日本の問題は、一部の人達が膨大なる利益を得るものの、国民所得が一向に増えず、
高齢化に伴い、働けない日本人が増える事で、国費が激減しているのです。

国民の消費レベルが上がる事で企業が成長できたことを忘れてはならないのです。
ならば、国民の経済力が上がり、消費支出が多く成れば、国が潤い企業が潤うかと言えば
そうとは言えないのです。
これまで戦後から取られて来た国策は、殆どが企業優先であり、国民生活をを考えず、
国民を、企業を成長させる為の消費者に位置付けて来た事が問題のです。

負の遺産を多く作り、公害をばらまき、様々な病気を生み出し、国民生活を苦しめながらも
更に、生活を委縮させるような策を獲って来た事が、人々を不幸にし続けて来た原因なのです。
多くの中小企業が倒産し、一極集中化の都市政策は、地方経済を疲弊させ、多くの国民の生活を
破綻させてしまったのです。

華やかな都会とは裏腹に、多くの地方都市は、シャッター街に象徴される寂れ様です。
多くの市町村には、何処に行っても高齢者ばかりで、消費はしても生産が出来ない高齢者が
日本の未来を象徴している様です。
働くことが出来なくなった高齢者や仕事を失った人々を支える為に使われる国家予算は、
年々増加する一方で、生活を支える為の資金は、そのまま生活費に消え、更には、企業に
吸い上げられる日本国民が、幸せな人生を送れる訳は有りません。

消費経済国家として、お金を回していかなければならないもの、その行き着くところは
一部の豊かな人々の懐では、国民はいつに成ったら幸せに成れるか解らないのです。
今や、日本人の多くが、未来に夢を持つことも出来ず、刹那的な喜びで満足せざるを得ず
日本国民に未来を夢見る事が出来ない不安感だけが世の中を席捲しています。

国民を幸せにする事も守る事も出来なくなった政府は、その主導権を、企業に委ねる事しか
出来なくなってしまった事が、政治家としてのプライドも正義感も無くしてしまう原因と
言えるのです。
選挙の時だけ頭を深く下げ、終われば、国民に尻を向け、頭は、豊かな人達に媚び諂う
そんな政治が、国民を幸せに出来る筈は有りません。

今や、大人だけでなく、子供達も、豊かさの価値観が、外見的な豊かさに成っています。
お金さえあれば何でも我儘が許されるとする乱暴な考えが、多くの人に広がっています。
マナーも思いやりも無くなり、唯、自分の欲望を叶える事しか頭の中に無い日本人が
非常に多くなっているのが心配です。

経済的高さが心の基準となった人は、人の心を感じ取る事は難しく、自分の欲望の為
人の心や身体を傷つける事を何とも感じなくなっているのです。
様々な暴力問題、セクハラ、パワハラ、モノハラ、と近頃ニュースになる問題の多くも
基本的には、社会的な地位や外見、経済力が有れば、自分の考え通りに振る舞えるとする
人間としての教育の欠如が浮き彫りと成って来たと言えるのです。

20年程前、子供達の日常的な喋り方の酷さがニュースと成り、若者達の大人に対する
礼儀の無さを嘆く記事が紙面に多く載ったものでした。
しかし、今では、対人的に横柄なこれらの言葉や態度が、ごく当たり前に社会に受け入れられ
人々の対人的な心構えが、我儘であっても構わないとする勘違いが増えています。

子供達や学生の間やその友達、更には家族に対して礼をわきまえない態度を容認する事が
社会に出て、様々な考えを持つ人達と生活する大きな障害となる事が解っていません。
より高額な所得を得る為に、ただ、学歴が高ければ許されるものでは無く、どんなに
難関な大学を卒業しようも、人間として成長が見られないと、社会で上を目指す事は出来ません。
仕事が出来るだけの能力は、AIに任せておけばいいのです。
その管理や、共同の仕事には、人間としての優れた対人センスが必要なのです。

優れた企業人となる為には、優れた人間性を育てていなければならす、面接試験のハウツウで
一時的に誤魔化しても、いずれぼろが出てくるのは明らかです。
しかしながら、社会的に不適合な人格の持ち主であっても、豊かな人達の中に生まれると、
いつまでもそのわがままが許される事が有り、社会的に上の地位に成った人達の中に
常識を疑ってしまう様な行為をしたり、不正をしたりする人が出て来るのです。

この様な人達は、追及されると決まって言い訳を並べ立て、更には、他の人の責任として
自分は知らぬ存ぜぬを貫きます。
しかし、この様な人達が、国民に裁かれることは無く、同じような人達に守られて、
またもや復活する姿に、どれだけ呆れ落胆した事でしょう。
多くの日本国民が、日々の生活で苦しんでいるのに、何不自由ない生活を認められながら
更には、我儘を押し通せる、これ程生温い世界の人々が、国民の事を考えられる訳が
有りません。

政治と言わず、一般社会でも芸能界でも、日本人は、豊かな生活が出来るようになると
何故、自分達を支えてくれた人や貧しい人達を苦しめるのでしょう。
弱きを助け、強きをくじくという理念が、小さい頃からの教えに在り、
様々なドラマや映画、更には漫画やアニメの世界にも流れていたものです。
その痛快さ格好良さに多くの人々は興奮し自分の生き方を学んだものです。

所が、今や、寄らば大樹の陰、君子危うきに近寄らず、人に与えず人から奪い取ると言った
かつては、白い目で見られたような事が、保身の為に平気で獲られる社会です。
まるで取ったもの勝ち、と言った、欲望に渦巻く社会で対人関係がギスギスしています。
歴代の総理の様に、いずれ、腕を組んで時期リーダーを議事席で高みの見物をする姿が
想像できます

国会中継を見ると、戦後の政治を担って来た多くの懐かしい顔ぶれが並んでいます。
いずれも、激動の昭和史を作って来たのですが、果たして、どれだけ国民の為に
尽くして来たかと考えると、政治家というより政治屋を感じさせる方が少なく有りません。
いつの日か、この人は、国民を救い、日本の未来を創ったと言える政治家が現れる事を
切に願わずにはいられません。