めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

偽物の人生

2018-04-25 11:23:34 | 日本人

果たして、私たちの人生に於いて、本物が有るのだろうか。
自分が正しいと思うことでも、社会が正しいと認めることでも、
時が経てば、月日が過ぎれば、間違っている事も多いのです。

日常生活に於いても、見るもの聞くもの触れるもの全てが、
自分自身が認識しているつもりでも、他の人からすれば
間違っている事や理解しがたいことも多いのです。

つまり、自分から見て、この世のすべてのものは、たまたま
自己判断によって、正当化しているのであって、そのどれもが
私たち人間にとっては、真実とは言えないのです。

しかしながら、生きていくということは、自分自身を納得させ
意志のもとで正当化していかなければならないのです。
例えそれを他人が否定したとしても、自らが正しいと判断しなければ
自分の人生は進んでいかないのです。

その為には、他に答えが有るとしても、自分が正当化することが
重要であり、その判断基準に基づいて、生きていくことが出来るのです。
それ故、昨日の真実は今日の間違いとなる事が多いのです。
では、自分の判断が常に間違っている事を反省すべきかと言えば
この間違うことで、新たなる方法や真実を求めようとするのです。
この繰り返しが、人間の進歩であり進化であると言えるのです。

人は、常に間違いを起こすものであり、失敗を繰り返すものです。
それは、いかなる場合に於いても、自分が正しい判断をすることが
非常に難しく、より正確な判断を求めるには、余りにも知識が少なく
その中で、最も適切なものを、自分の正解としなければならないからです。

つまり、私達は、日頃から、本当に正しいと言う考えや行動をする事は出来ず、
常に、その場に於ける状況判断によって、より的確であると思える行動や
言動を行っているのです。
その判断が、自分の周囲の環境や社会に於いて正しいと評価されたとき
初めて、自分自身の判断が正しかったと思い、更には、認められたとして
生き甲斐を感じる事と成るのです。

しかし、自分の判断が、いつも的確であると言う事は無く、例えその場に於いて
上手く事が済んでも、しばらくすれば、間違っている事は多々あるのです。
この後に成っての間違いを少しでも少なくすることが、人生を楽しく有意義に
送る術であると言え、多くの人が、小さい頃から勉学に励み、多くの知識や
経験を積み重ねるのです。

とは言っても、人間が自分の知識や経験として身に付けられる量は非常に少なく
日常に於いても、働いていても、あらゆることが新たに起こり、それに対処する
判断を常に求められるのです。
知識や経験ではとても補いきれない事が起こる為、日常的に多くの間違いを犯し
苦しんだり悩んだりするのです。

その為、人々は、対人的なルールを持ち、出来るだけ間違わない様に、お互いの
考え方を理解し、例え違った考えで有っても出来るだけお互いの考えを認め
双方が利益となる様に社会を作り上げて来ました。
1つはステムをスムーズに行う為に、もう1つはは対人的にトラブルと成らない様
考えの違う人間同士が生活を共にしていても問題を起こさない様にしているのです。

この二つの考え方がスムーズに言っていると、人間は、文化的に平和的に進歩出来
幸せな毎日を送れると言えるのですが、近代的な生活をしていても、トラブルは起こるもので
多くの場合、自分の考えを主張して相手の気持ちを考えなかったり、自分の考えを
押し付けたりする事に依って発生します。

文明の進化と共に、近代的な社会が築かれて来たと言っても、人間同士の関わり合いが
伴わない事に依るトラブルが起きているのです。
この事は、著名人に様るトラブルだけでなく、一般社会い於いても頻繁に起こっていて、
唯、メディアが、取り上げる、政治家や芸能人のスキャンダルや不祥事が問題というより
それは、日本社会の、ほんの氷山の一角で有り、日本中の都市で会社で学校で、頻発している
問題と言えるのです。

誰もが、自分が正しいと思えることを見つけられず、社会的に価値があると思われる事に
価値観を見出そうとする為に、対人的な人間としての価値観を感じる事が出来ず、
様々なトラブルやハラスメントを生じているのです。
自分の欲望を満たす為に、経済社会で生きて行く為には、他人の事を構っている場合ではなく
成績として示すか、社会的な地位、財産と言ったもので自分を守るかしか出来ず、
いつまで経っても、どんなに利益を得て経済的豊かな暮らしが出来ても満足できないのです。

自分が社会的に地位を得た方法が、対人的に見出されたと言うより、社会的外見的な価値を
身に付ける事で在った為、対人的なやり取りが成長できず、まずは、自分の欲望願望が
前面に出てしまう事から、人を傷つけたり国民を落胆させたりするのです。
対人的関係とは、自分を生かし自分の価値を高める事にのみ使われ、他人を生かし人を認める
という道徳的考えが身に付いていません。

人々が協賛して集まる時は、常に、自分の欲望が満たされる時であり、欲望が満たされなければ
まるで潮が引いて行く様に散って行くのが常と言えます。
それ故、対人関係は、如何に利益が関わるかで決まり、相手の気持ちと深く関わる事が出来ず
他人の心が理解できず、自分の欲望だけで関わろうとしてトラブルを起こしているのです。
今や、社会的に地位が有る人や政治家と言った、日本を牽引して行く様な人達の人間としての
未熟さを感じさせる事件が目に付きます。

この事は、その様な有名人が問題を起こしているというのではなく、たまたまメディアが
暴露しているのが有名人で有って、同じような事件は、日常茶飯事で起きているのです。
つまり、日本人全体が問われていると言って良いのです。
学校だけでなく社会に於いても、イジメや差別と言った問題が多い事から、文科省も
子供達の教育の一環として道徳の授業を考えて居る様ですが、その授業を行う先生も
日本の消費経済社会で育ってきているのですから、事務的に教える事は出来ても、
道徳の先生として教える事は難しいのです。

対人的なトラブルがひんぱつする日本社会は、学校で教えると言うより、むしろ、大人たちが
自らの襟を正し、如何に社会を運営して行くかを、人間サイドに立った考えで作り直す事が
大切と言えます。いくら子供達を教育しようと、社会のシステムが、対人的問題を起こす様に
作られていれば、社会に巣立っていった子供達は、唯、旧来のシステムに組み込まれるだけなのです。

今や、日本人は、世界的に見ても豊かな生活を送れていると言えますが、これはあくまで経済的な
外見的な豊かさで有り、日本人の多くの人達の心を覗けば、不満で一杯の、幸せとは程遠い
精神的に満たされない人が実に多いのです。ただ、消費経済国家の見てくれの豊かさで、何とか
心を慰めているに過ぎません。
経済的に豊かに成ると言う事は、生活や健康に関して不満や不安を抱かない社会になると言う事です。
基本的に経済的な事で心が囚われない生活が出来て初めて、人々は安心した毎日が送れます。

この不満や不安を日本国民が個人的に満たさなければならない、しかも、経済的に豊かに成る事で
満たさなければならない事が問題です。
今や、日常的に安心な毎日を送れる日本人は、数パーセントに過ぎません。
大多数の国民が、衣食住、そして健康に関して苦しみあえいでいるのです。
その数少ない富裕層を基準に日本の政治が行われているのが最大の問題と言えます。

あらゆる社会事業が、まず、国民というより、社会的に大きな利益を得ている人達の考えを基準に
行われている事が、国民がいつまで経っても幸せを感じられない原因でもあるのです。
例え、多くの被害を出し、多数の死傷者を出した東日本大震災の復興事業に関しても、その方法は
企業中心の、被災者後回しの対策でした。復興したとする街や故郷は、既に、何処の街の姿か
全く解らず、見るからに、多くのお金が動いて利益が生れているかが解るのみです。

この事は、日本で行われる事業の基準が、国民全体の利益というより、国としても多くの利益が得られる
大規模事業者や富裕層の考えを元に作られているからです。
21世紀と成って、日本中の街が、地震や台風と言った自然災害に襲われ、多くの街が破壊されましたが、
復興した街並みは、いずれも同じような都市計画で有り、同じような考えを持った方々によって
作られたことが良く解ります。被災地の特徴は、同じような作りの街並みで有り、多くの利益が
特定の企業に流れているのが良く解ります。

被災した人々は、物的人的な被害を受けて、心も身体も打ちひしがれているのに、出来上がった街並みに
故郷の面影は全くありません。被災地に群がる多くの企業が、其々の利益を目論み作り上げられた、
昔からの心安らぐ故郷では有りません。
東日本大震災で破壊された東北の街の復興状況を見ても同じであり、例え、近代的な設備と住居ができても
昔からその地に住んでいる人にとっては異国の地であり、長く親しんできた県外からの観光客にとっても
進んで遊びに行きたくなるところでは有りません。

日本で行われる事業は、常に、経済的な価値をもって行われ、住む人や使う人の事を考えて、未来を見据えた
人々に夢を抱かせるようなものでは有りません。
ただ、奇抜で近代的な設備や建物を作れば、日本人の多くが集まり楽しいと思うと言うのは、高度成長期の
日本人がまだ敬座的に満たされない、発展途上国であった頃の考えです。

今や、家庭内に於いても、経済成長によってもたらされた過去の遺物で一杯であり、人々の生活は、
与えられる便利で豊かな品物を消費する事にのみ仕事を頑張っているに過ぎません。
次々に作られる新製品を買い求める事で、自分自身の心を誤魔化しているに過ぎないのです。
日本国民の本当の幸せを考えないで、消費経済を豊かな象徴として推し進める日本の政治は、
既に、国民の心を疲弊させ、他人の心を傷つけてもなんとも思わない様にしてしまっているのです。
一部の将来の生活や健康に不安の無い方々はまだしも、殆どの庶民にとって、日常生活を送る事は
益々心を苦しくしてしまうだけなのです。

日常的に沢山の日本人の中で生活していながら、例え隣の人であっても、何の関わり合いも持たず
心のやり取りが出来ない日本人がとても多いのです。
自分だけの利益を考える生活は、当然、対人的な思いやりも気遣いも出来ません。
様々なトラブルやハラスメントが起こるのは当然と言えるのです。
日本人の素晴らしさは、対人的に豊かな感情のやり取りと思いやりであったはずです。
例え、欧米的な経済国家と成ったとしても、長い歴史の中で培われて来たこの心の豊かさを
見失ってしまっては、もはや、日本人としては生きてはいけないのです。
しかしながら、心の豊かさよりも、経済的な豊かさを優先している方々によって日本は動かされ、
国民は振り回されているのが現状と言えます。
日本人一人一人が、自分にとって一番相応しい生活が送れ、自分自身の価値観を見いだせる
他人とに比較や、経済的な豊かさを追い求めないで生きられる社会が求められます。