めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

金持ちに成っても幸せに成れない日本

2017-11-11 15:39:54 | 日本人

人はどんな環境に有っても年をとって行くものです。
かつてスクリーンの上やテレビ画面の中で、輝く様な
素晴らしい演技を行っていた名俳優が、数十年ぶりに
画面に登場すると、一体、どこの誰だろうかと思って
思わず目を擦ってしまいます。

あらゆる物を手に入れ、誰が見ても幸せな人生を送って
来たであろうと思われる方も、手に入れた様々な物は
変わらずとも、本人の衰えは隠せません。
懐かしい往年の姿をビデオで見ながら、自分も当時
同じように輝いていたと思うと、改めて、自分自身も
歳を取ったものだと感じます。

とは言え、人間は、生き物であり、その命は、限りが有ります。
例え長生きをしたとしても、100年が限度とも言えます。
更には、現役でバリバリ働ける期間は、ほんの短い間であり
長生きをすればするほど、かつて若かりし頃の思いと、
現在、心身共に充実して働いている若い人達の姿が重なり
更なる感慨がこみ上げてきます。

しかしながら、人の心は、いかなる環境に有ろうと、
それ程変わるものでは無く、もし、気持ちが揺らぐときと言えば
自分の健康が損なわれたり、生活環境が厳しくなったりする時です。
確かに、外見的には随分変わったと言えるかもしれませんが、
若い頃と高齢になった時と、その心根はそれほど変わるものでは無く
三つ子の魂100までと言われる程、個人の性格は歳と共に大きく
変わるものでは無いのです。

環境の変化によって、其々の生き方が変わって来る事は有っても、
心の中の思いは、差ほど変わってはいないのです。
その気持ちの中の中心にあるのは、やはり、生きる事への執着です。
中には、早く死にたいと思う方も居るかもしれませんが、年を重ね
病に伏しても、何とか一日でも長らえたいと思うのが人情です。

品川区で時々若者を集めて行われる、両足に20キロの重みを付けて
街の至る所を歩く高齢者体験が有りますが、若者達が試してみて
1時間でも耐えられない重さを高齢者は自重として感じているのです。
更には、多くの方が持病を持っていて、ただ歳を重ねて行くと言うより
苦しみを重ねて生きていると言ってもいいのです。

何故、身体が病に侵されて、重い足かせを付けている様な日常を送りながら
頑張って行けるかと言えば、生きて行く事で、自分以外の人達や環境から
様々な生きる糧を得られるからです。
自らの身体ではとても体験できない様な激しいスポーツを見て、選手の
心の躍動を感じたり、大自然が織りなす、人間の思いを超える美しさに
感動したりできるのです。

歳を重ねれば、外見的な衰えを見て、心の中も萎えてしまっていると
思われる方も多いかと思いますが、幾つに成っても、心は、生き生きとして
まるで青春真っただ中と言う方も居ます。
そう、心は、歳を重ね、更に躍動的に成長している人も多いのです。

私達の社会は、若い働ける人達が中心に成っている様に思われますが、
人間の心の在り方としては、子供から高齢者まで、人類と言う生きものの
成長過程であり、その価値は、どの世代であっても大切と言えます。
生産性のある社会で働ける人が生き物として生きて行く為の糧を生み出すと
言えるかもしれませんが、私たち人間は、食べる為、良い生活をする為に
生きているのではなく、心と身体を育て、人間性豊かになる為に、
様々な環境整備を行い、衣食住を求めているのです。

其々の世代に於いて、如何に人間としてその存在価値を認められ、
より人間として高いステージを目指す事が出来るかが大切と言えます。
その為にも、私達は、様々人の心に触れて、一つとして同じ心を
持つ人はいない事を知らなければなりません。

自分が欲するものは誰もが欲すると言う事は無く、同じような物を求めても
その価値観は、人其々であり、その価値観に基づき、人々は自分の
幸せを求めて行くものです。
つまり、個人の幸せは、大衆の幸せと同じとは言えず、多くの人達が
同じ生活環境で生きて行く為に、同じような物を求めている様であっても
実際は、其々の価値観とは異なっているのが当たり前なのです。

しかしながら、今の世の中は、一部の人達の価値観で、多くの人達が
従わされちる事が多いです。
社会的なルールはまだしも、個人的な生き方嗜好に関しても、商業的な
利益の下に、選択方法や目的を定められ、社会全体が、一部の人達の思惑で
動いている事が問題です。

一部の人達の考えで、決して大衆の考えを変えられてしまってはならず、
一人一人に個性が有る様に、其々の嗜好や考え方によって、様々な生き方
目的が在って、それを認める社会が有る事が大切と言えます。
経済的に便利というのは、一見人々の幸せを呼ぶように思えますが、
実際は、特定の商品や考え方を押し付けられて、商業的な利益を生むために
人々の感情が操られていると言っても過言ではないのです。

日々シャワーの様に流れれる様々なコマーシャル、更には、映像的に見せる
幸せと言う定義は、国民を豊かに幸せにすると言うより、膨大なる利益を
目論んでいる方々の戦略と言えます。
何の疑いも無く、便利で豊かという生活にどっぷりと浸かって、消費経済を
続けて行けば、人生の生き方、目的は、自らが生み出したものでは無く、
誰かの提案に乗せられて、消費経済を単に手伝っているだけと成るのです。

私達日本人は、現在の消費経済社会に上手く順応して、経済的な豊かな暮らしを
実現する事が幸せであるかのように小さい頃から洗脳されて育っています。
沢山所得を得て、欲しいものを手に入れる事が幸せと思って生きて来た時、
欲しい物に沢山囲まれ、長い人生を噛みしめると、自分の人生は、この目に付く
便利で豊かな環境を手に入れる事であったのだろうかと、考えてしまいます。

人も羨む生活をして来た高齢者が、それを羨む多くの方々に対して、
その経済社会で獲得した物を前にして、なんの喜びも感慨も持てないと言いう
寂しそうな姿を見た時、一体、彼は、何の為に生きて来たのかと思ってしまいます。
自分が長年憧れた地位や財産が手に入った時、他人は、その地位と財産に自分の価値を
感じているだけで、一人の寂しい老人の価値を全く感じていないと知った時、
この経済的に豊かな日本で過ごした人生を、本当に満足して語れるのでしょうか。

もちろん、中には、自分の人生に大満足の高齢者も少なく無いと思われますが、
それは、何に対して満足しているかという事に依って違ってきます。
獲得した地位や財産に自分の価値を見出している人は、満足されるのでしょう。
しかし、多くの高齢者は、自分の今の心を満たしてくれるのは、それらの獲得した
物ではないのが身に染みて解っているのです。
何故なら、自らの身体が衰える事に依り、自分の獲得した物が、自分よりも遥かに
社会的に価値が有る物と人々は考えるからです。

物や資産が有るからこそ、自らの存在価値を見いだせないで苦しむ人が多いのです。
人は、人から生まれ、人に育てられ、人に守られ、其々の世代に於いて、
周囲の人達に、その存在価値を認められて生きているのです。
どんな生活環境に居ても、人として個人としての価値を認められていなければ
人間社会に生きて行く力は沸いて来ないのです。

地位や財産を得る事に依って、その人間としての存在価値を失って行く人が多いのです。

地位が上がる度に、個人的価値は無くなり、その肩書や地位のみが人々にもてはやされ
人々は、その外見に近寄って来るのです。
若い頃は、その事を、自らの価値が上がったと勘違いしやすいのですが、一度自分が
失職したりして落ちこぼれれば、蜘蛛の子を散らすように人々が去って行く事で、
決して自分の価値が上がっていたのではない事を知るものです。

消費経済社会の問題は、豊かな生活で人は幸せであると錯覚する事です。

環境の豊かさで、人との関わり合いを忘れ、周囲の人達との心のやり取りを
見失ってしまうのです。
人間関係が全て利害関係と成り、お互いに、外見的な物でしか人を判断出来なくなって
自らが外見を失った時、また、外見的な価値を作り出せなくなった時、
現代社会は、人の価値を認めなくなってしまうのです。

日本が高度成長期の時は、誰もが、外見的な価値を人間の価値の様に思っていた為

ただ、多くの所得を得て、好きな物で消費出来れば幸せと感じていたのですが、
現代社会は、人々の心も成長して、更には、世の中が不景気である事も有って、
より豊かな人間関係に飢えている人々が増えているのです。
表向きばかりを、高度成長期の様な日本にしようとする古い体質の考えしか
思い浮かばないリーダー達は、自分達も、既に人としての価値を見出されていなくて
その地位と財産のみで大きな顔が出来ている事に気が付かなければなりません。

財産のある人も、日々の暮らしに困っている多くの国民も、この人の言葉ならば

何はともあれ頑張りたくなると思えるようなリーダーが求められるのです。
いまだに、高度成長期の様な社会を目指している限り、日本人は、どんなに所得を
得られる様な生活が出来ても、心から幸せには成れないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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