最近のNHKの主力ドラマには、クリスチャンの人物が登場している。
大河ドラマ「八重の桜」、「軍師官兵衛」、そして朝ドラ「花子とアン」といった具合だ。
これだけ続いてくると、日本の宗教家も取り上げて欲しくなるのも人情というもの。この発言、無理は承知だ。
基本的には大河ドラマでも朝の連続ドラでも宗教家は描かない、という暗黙の了解があるようだ。
宗教家ではないにしても、このところキリスト教を描きすぎてやしませんか、と問いたくなる。
まッ、そのことは置いて、最近に読んだ本を紹介。
先週のことだと思う。どういう経緯でこの本を手に取ったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、何となく書名にひかれて、というくらいの選択だったのかもしれない。
島田裕巳著『比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか』ベスト新書。
内容はこんな感じだ。
鎌倉新仏教の宗祖たちは、一遍をのぞいて、全員が比叡山で修行をしている。そのことについて書かれた本である。浄土宗、臨済宗、日蓮宗、浄土教系の一宗である時宗、それらすべてのルーツが天台宗にある、というお話。
浄土宗からは浄土真宗が、臨済宗からは曹洞宗が生まれた。
そもそも最澄が中国の天台宗の影響を受けて確立した総本山から、代表的な宗教家である法然、親鸞、栄西、道元、日蓮を排出した。
天台宗以前に成立した南都六宗、真言宗をのぞくと、新宗派のルーツはすべて比叡山にあって、中世から近世にかけて、ここは仏法を学ぶ総合大学であった、と著者は考えている。
なぜなら真言宗の空海の高野山からは、鎌倉時代以降、新しい宗派が生まれ、独立していくことはない。内部に新たな派が生まれても新しい宗派の形成にまでは至らなかった、と著者は言う。
僧兵をかかえ、寄進によって比叡山のものとなった地域の実質的支配者となったことで、朝廷や幕府に拮抗する勢力となっていった。
高野山も比叡山も、単に修行し研鑽を積む場にとどまらず、製造業や金融業者まで入り込んだ一種の都市を形成していく。しかし、新しい宗派を形成するには、天台学を軸に学びのルーツとシステムを作りあげたことが大きい要因らしいことが読み取れる。
そしてなにより最澄のこだわりと矛盾が、鎌倉新宗派を生み出す原動力になった、と著者は結ぶ。
春の彼岸も、祥月命日も過ぎた野口三千三先生が眠る寛永寺は、山号を東叡山という。つまり、天台宗の寺として“西の比叡山延暦寺”に対して、“東の叡山寛永寺”なのである。
寛永寺は明治維新ですっかり領地を減らし、今では根本中堂は残すもののなんとも寂しい風情だが、御本家の天台宗の総本山である比叡山延暦寺も仏教の総合大学でありながら、鎌倉新仏教の各宗派に比べて規模が小さい、とおっしゃる。
寛永寺は徳川家の菩提寺として、格式は保たれている。ただ、地方の徳川家縁の寺々は、檀家が日々少なくなって、寺を維持する苦労がさまざまにあると聞く。
それはさておき、著者は天台宗に思いを寄せて、この書を著したことが最後に伝わって来る。
日本の仏教を辿る旅のなかで、天台宗をもう一度見直し、学び直しをして欲しい、というのがいちばん言いたいところだったようだ。
NHK総合のゴールデンタイムで、最澄、空海、そして栄西、道元、法然、親鸞、蓮如、日蓮、一遍、他にもいますが、こうした宗教家を、真向から取り上げてくれてもよさそうだ、と思わなくもない。すると当然のことに神道も、ということになるのだろう。
これはますますもって難しい、と門外漢の私でも予想はつく。
しかし、一度、日本人と宗教を考えることも21世紀にあって大切なことではないだろうか、とこの本を読みながら思った次第であります。
大河ドラマ「八重の桜」、「軍師官兵衛」、そして朝ドラ「花子とアン」といった具合だ。
これだけ続いてくると、日本の宗教家も取り上げて欲しくなるのも人情というもの。この発言、無理は承知だ。
基本的には大河ドラマでも朝の連続ドラでも宗教家は描かない、という暗黙の了解があるようだ。
宗教家ではないにしても、このところキリスト教を描きすぎてやしませんか、と問いたくなる。
まッ、そのことは置いて、最近に読んだ本を紹介。
先週のことだと思う。どういう経緯でこの本を手に取ったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、何となく書名にひかれて、というくらいの選択だったのかもしれない。
島田裕巳著『比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか』ベスト新書。
内容はこんな感じだ。
鎌倉新仏教の宗祖たちは、一遍をのぞいて、全員が比叡山で修行をしている。そのことについて書かれた本である。浄土宗、臨済宗、日蓮宗、浄土教系の一宗である時宗、それらすべてのルーツが天台宗にある、というお話。
浄土宗からは浄土真宗が、臨済宗からは曹洞宗が生まれた。
そもそも最澄が中国の天台宗の影響を受けて確立した総本山から、代表的な宗教家である法然、親鸞、栄西、道元、日蓮を排出した。
天台宗以前に成立した南都六宗、真言宗をのぞくと、新宗派のルーツはすべて比叡山にあって、中世から近世にかけて、ここは仏法を学ぶ総合大学であった、と著者は考えている。
なぜなら真言宗の空海の高野山からは、鎌倉時代以降、新しい宗派が生まれ、独立していくことはない。内部に新たな派が生まれても新しい宗派の形成にまでは至らなかった、と著者は言う。
僧兵をかかえ、寄進によって比叡山のものとなった地域の実質的支配者となったことで、朝廷や幕府に拮抗する勢力となっていった。
高野山も比叡山も、単に修行し研鑽を積む場にとどまらず、製造業や金融業者まで入り込んだ一種の都市を形成していく。しかし、新しい宗派を形成するには、天台学を軸に学びのルーツとシステムを作りあげたことが大きい要因らしいことが読み取れる。
そしてなにより最澄のこだわりと矛盾が、鎌倉新宗派を生み出す原動力になった、と著者は結ぶ。
春の彼岸も、祥月命日も過ぎた野口三千三先生が眠る寛永寺は、山号を東叡山という。つまり、天台宗の寺として“西の比叡山延暦寺”に対して、“東の叡山寛永寺”なのである。
寛永寺は明治維新ですっかり領地を減らし、今では根本中堂は残すもののなんとも寂しい風情だが、御本家の天台宗の総本山である比叡山延暦寺も仏教の総合大学でありながら、鎌倉新仏教の各宗派に比べて規模が小さい、とおっしゃる。
寛永寺は徳川家の菩提寺として、格式は保たれている。ただ、地方の徳川家縁の寺々は、檀家が日々少なくなって、寺を維持する苦労がさまざまにあると聞く。
それはさておき、著者は天台宗に思いを寄せて、この書を著したことが最後に伝わって来る。
日本の仏教を辿る旅のなかで、天台宗をもう一度見直し、学び直しをして欲しい、というのがいちばん言いたいところだったようだ。
NHK総合のゴールデンタイムで、最澄、空海、そして栄西、道元、法然、親鸞、蓮如、日蓮、一遍、他にもいますが、こうした宗教家を、真向から取り上げてくれてもよさそうだ、と思わなくもない。すると当然のことに神道も、ということになるのだろう。
これはますますもって難しい、と門外漢の私でも予想はつく。
しかし、一度、日本人と宗教を考えることも21世紀にあって大切なことではないだろうか、とこの本を読みながら思った次第であります。
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