羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

『旧満州の真実』

2015年03月10日 12時30分13秒 | Weblog
 原稿書きは、最初の山を越えつつある。
「あとがき」最後の三行を、書いては消し、消しては書く作業を繰り返すばかり。
 いちばん難しいことに触れそうになる。
 今回は、やめておけばいい、と自分にいい聞かせている。
 気分転換に昨日から、一冊の本を読みはじめた。そして、午前中に読み終えた。

 経歴を読むと、著者は中国・長春に生まれ少女時代と青春時代に文化大革命を体験している、とある。文革の後、大学に進学し中国文学を専攻、中国伝統文化と西洋文化を猛勉強し、日本語は独学。現在は親鸞思想の研究をしているとあった。
 両親ともに中国人で、父は弁護士・医師であり、母は満州映画協会でタイピストをしていた。

 今まで満州国についていくつかの本を読んできた。しかし、この本は別格である。
 淡々と語られる満州国の歴史に、中国の底力を知らされる。
『三国志』を下敷きに、国民軍・共産(ゲリラ)軍・日本軍。日本が知らず知らずのうちに深みへと引きずり込まれる戦況が、確かな筆で描き出される。
 この戦争で多くの人間が死んでいった。一人一人は誰かの息子であり、兄弟であり、父であるのに、兵隊になれば何もかもが帳消しになって、ただの“弾の数”でしかない現実に、胸が痛くなる。
 帯には『奪った日本人も、奪われた中国人も、歴史の傷は深く苦しく、……』とある
 その一方で、満州国は、驚くべき実験国家だったことが、伝わって来る。

 石原莞爾や甘粕正彦の実像に迫る著者の立ち位置には、日本人も中国人も超えた人間としての視座をしっかりと確立している稀なる存在として胸に迫るものがある。
 驚くべきは戦後の毛沢東の支配者としての姿を容赦なく描き出す筆が、さらに凄みを増すことだ。

 そして親鸞の教えをもとに、戦争というもの、そこに関わる人間の複雑さや陰影を、単純な善悪に分けず、感情を逆撫ですることなく、挑発をしっかり押さえ込んで、捉え直しをしていくみごとな最終章をもって終わる。
「甘粕正彦と親鸞」の取り合わせに、今までにない戦争の真実を読ませてもらった。
 これほど賢明な女性作家がいるということに、大きな救いを感じて私は静かに本を閉じた。

 ふと、よぎったことがある。
 もし、野口三千三に、野口体操に出会わなかったら、私はおそらく先の戦争にここまでの関心を持たなかったと思う。
 確かに、子どもの頃過ごした新宿の街角には傷痍軍人が何人も立ち、ガード下には戦災孤児と乞食が一緒になって物乞いをし、クリスマスから年末には救世軍が社会鍋の寄付集めをする姿を見て育った。
 終戦後とはいえ、まだまだ庶民の暮らしの戦争は終結していなかった。
 としても、それは時間とともに薄れて行く記憶であったに違いない。

 …… どうしてこのような体操に、野口体操はなっていったのかしら? ……
 
 何人かの高齢の方に問いかけてみた。
「それは教え子を戦場に向かわせたからでしょう」
 判で押したような答えが返ってくる。
 それはそうかも知れない。
 しかし、もっと、根本のところで、戦前・戦中の体育や体操から、まったく異なる体操へと変貌する”何か”、得体の知れない何か。湖の底の底に塵芥が溜まるように、人間が人間であることによってどうしようもない澱を抱えてしまう”何か”。
 またまた、私は、原稿の三行迷路にはまりそうだ。

『旧満州の真実』張鑫鳳(Chang Shin-feng)著 藤原書店 2014年12月30日
 
 
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