羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

アンクルン

2008年03月20日 19時56分34秒 | Weblog
 『魅せられた身体』のなかで、「小さな人」という子どものガムラン楽団の写真を見つけた。
 最前列に陣取って演奏をしている子どもが持っている楽器は、竹で作られた「アンクルン」のようだ。
 
 実は、かれこれ20数年前に、アンクルンで‘ブンガワンソロ’を楽しんだことがあった。この曲はバリ島ではなくジャワ島の曲だ。
 浅草のパーカッションの店で手に入れたアンクルンは、いわゆる西洋のドレミの音階で作られていた。三本の竹で一音を出すのだが、竹を立てかける枠は朱色に塗られていて、見た目に派手な様相をしている。これはタイで作られたものだと説明された。

 この‘ブンガワンソロ’は、クラシック音楽の音階と和音で作られているので、ピアノで伴奏することが出来る。戦前の日本人にはなじみ深い曲だったらしい。
 その曲をアンクルンとピアノで演奏すると、メロディーの音程は、非常にアバウトになる。だから絶対音感を持っている人には、聴くに耐えられないかもしれない。
 しかし、竹を震わせて演奏することで、郷愁を感じ、涙する人までおられる。
 なぜか?
 それは戦争の体験だ。
 南方の戦地から、運良く戻ることができた数少ない日本兵は、竹の音色とブンガワンソロのメロディーに喚起される思いは複雑なのだが、哀愁を掻き立てられてしまうという。戦地に赴かなかった人でも、戦前の暮らしに懐かしさを感じるようだ。それ以上にアジア共通の自然を‘竹の楽器’の音色に感じ、共振する気持ちよさに浸ることになるらしい。

 私の手元に届いたアンクルンは、西欧人が彼らの伝統的音楽コードに変容させてしまった楽器だ。しかし、そのことによってピアノとともにあって、ピアノだけでは表現しきれない音楽の趣が醸しだされる。コードからはずれた演奏であっても、演奏する楽しさが得られたということも事実なのだ。

 竹の楽器には、西洋の楽器にはない親しみがある。
 アジアの国々は島嶼部も含めて竹に恵まれている。竹が楽器として生かされるのは自然な成り行きだった。
 アンクルンという楽器ひとつ取り上げても、最初はどこの国で作られたのだろうか。よくわからない。音楽の交流は、アジアの広い範囲に及んでいることが楽器によって明らかにされる。音は、音楽は、演奏の瞬間に消えていく。しかし、楽器は残る。音楽は民族によって変化しても、「もの」に託された人の思いは消えることなく伝えられるに違いない。

 アンクルンは、小舟に揺られ、島々を渡る。
 いつしか寄せかえる波間に、竹の音色が溶け込んでしまう。
 山間部では楽器の震えが風とともに天空の神々に捧げられる。
 
   *******

 あれ以来私の十数本のアンクルンは、高い棚の上にのせられたままだ。
 少なくとも最近の二十年、音楽もまた封印してしまったことに気づいて、ハッとする私。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1959年の不思議 | トップ | 魅せられた身体……エピローグ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事