羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

魅せられた身体……エピローグ

2008年03月21日 19時37分11秒 | Weblog
 やはり地雷を踏んで、書かなければなるまい。
 音楽に魅せられた瞬間について。 
 それは‘耀変天目茶碗’に魅せられたときのように、血が逆流する快感に似ている。
 宇宙に存在する美しい色を吸血鬼のように吸い取って、吐き出された漆黒釉面。
 そこに無数の星紋が現れ、そのまわりが玉虫色に光る。
 冷静と情熱と、愛憎。
 狂気と正気と、善悪。
 
 ……すべてが無に帰する……
 
 他者の息遣いとわが身が発する吐息がいつしか同じ周波数に揺れ始める。
 骨が砕け、筋肉が緩み、内臓がリズミックに呼吸する感覚だけが鮮明となる。
 意識は、あたかも死者の霊が修羅の妄執から逃れて浮かぶことを表す‘解脱境’に入り込むかのよう。

 その瞬間に遊んでいる身体。
 あたためられた血は、全身にくまなく巡り、存在の輪郭は失われていく。
 しかし、感覚は孤独だ。
 一人では達し得ない揺らめきなのに、他者が楽器が同じ感覚を共有しているかを確かめ合える言葉はない。
 歯がゆさが、さらに深く身体の和音を求める。
 もっと、もっと、いつまでも……と。
 音はなり続ける。揺れ続ける。
 
 そしてしばしの沈黙。
 光が絡まり、声が和合し、脳がふわりと浮かび上がる。
 それが音楽に魅せられたとき。
 
 演奏の行為とは、交わりと瓜二つ。
 銅鑼の響きが、長く尾を引きながら消え入るのを、じっと、待つしか女の覚醒は訪れない。
 一筋、流れる涙の味は、格別である。
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2 コメント

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ついに地雷を踏んだ? (モンジロー)
2008-03-22 23:23:17
瀬戸内寂聴の「秘花」のブログを読んだとき、先生の中にもエロスの熾きが残っているのではないかと思っていましたが、これはこれはとてもほかに表現の仕様のない、熾きの一瞬の風を捕らえて燃え盛ってはゆっくりと勢いを引いていく、見事な文章ですね。交わっても交わっても溶け合っている確認がとれない寂しさ、それは男も同じです。寂聴とはそういうことなのでしょうか。他者との溶け合いを求めきってなお達せられない寂しさは、寂しさが寂しさを呼んで終わりなきエロスの追求に至るかもしれませんが、もし一人で在ること(ソリチュード)の至福に気づくことができれば、その連鎖から自由に出入りできるようになるでしょう。
私は先生はそれ以上にもはやソリチュードの世界に籠もってしまったのではないかと心配になっていたので、この文章を読んでほくそえんでいます。
いつまでも女として歳を重ねていただきたいと思っています。
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踏みそうで踏まない地雷 (羽鳥)
2008-03-23 19:04:54
言葉というのは、なかなかに煌くものですね。
ちょっと悪戯が過ぎた文章でしたかしら?
ブログ千回までには、もう少しありますが、数のうちです。たまにはいいでしょう。
ご自由にお読みくださいませ。
モンジローさん!
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