京王線幡ヶ谷駅を降りて、西原商店街を進み、遊歩道を左折、まっすぐ100メートルほど歩くと右手に渋谷区スポーツセンターがある。閑静な住宅街の一角に位置している。
体操場、武道場、卓球場、プール、テニスコート、グランド、フットサルコート、等々、殆どのスポーツや体操ができる施設である。
ここはかつて東京教育大学体育学部があったところ。
遡れば、第二世界大戦末期につくられた「体専」の名で呼ばれた、官立の東京体育専門学校であった。
本日、野口三千三先生が昭和18年に助教授として赴任した、この地を訪ねることができた。
Web上で東京教育大学体育学部の写真を探し出すことができて、現在は渋谷区のスポーツ施設になっていることを突き止めたからだった。
大きなグランドがあり、広大な敷地であったことが想像できる。おそらく想像だが、隣接する高齢者施設までが敷地内であった気配である。
お腹が減って力が入らない体でありながら、野口先生は校舎の屋上に仁王立ちになって空を仰ぎ、負ける日本に無念を感じたというその場に立つことができた。
空襲にあった新宿の街が、炎に包まれるのを見ていたという。
目の前に西新宿の高層ビルがはっきりと見て取れる場所である。
私は、建物から出てグランドに立った。
思わず、深呼吸をした。冷たい空気が肺に侵入する。
先生は少なくとも4年~5年の間、ここの場所で過ごされたのだ。そう思うと何とも言葉にならない感慨が押し寄せる。
しばらくその場で佇んでいた。
「いっそ、新宿まで歩いてみよう」
昭和30年代には、幡ヶ谷にも初台にも友だちや知り合いが暮らしていて、西参道を通り越して歩いて来たものだった。かつて川が流れていて蛍狩りなどして遊んだ所は、今では遊歩道になってしまっている。
広々した渋谷区スポーツセンターを右に見て、しばらくしてから住宅街を左折すると甲州街道に出た。
街道を一気に新宿に向けて歩く出す。
代々木警察を通り越すと初台である。オペラシティーから真っ直ぐ歩き、「新宿区」の表示を見てから左折する。都庁の巨大な建物を正面にみながら歩き続けると、新宿中央公園の入り口に達する。
ついでに住友ビルに寄って「東京の水道の歴史」がわかるプレートを読み、巨大な水道管を眺めて、朝日カルチャーセンターに立ち寄ってみた。
つまりここは、淀橋浄水場の跡地に建てられた高層ビル群の一棟なのである。
ざっと30分くらいだろうか。
幡ヶ谷から新宿まで、戦争末期から敗戦後に野口先生も歩いただろう道を辿りながら、私は、焼け野は原に立って、“大地と自分が一体に感じられた”という『原初生命体としての人間』岩波同時代ライブラリー「インタビュー」冒頭で語られた言葉を反芻していた。
終戦は群馬の前橋で知ったという。そこから食料を背負って、幡ヶ谷までどのようにしてたどり着いたのか、まったく記憶が抜けていると伺った。
街の様相は変貌を遂げた。しかし、道はどんな細い道であっても、殆ど変わらないだろう。
朝の「ごちそうさん」のお蔭で、野口体操の原点を辿りたい気持ちが高まったことに苦笑しながら、或る種の後悔の念を抱いていた。
こんな近くにあって、両親が生まれ育った街であり、私自身も母と同じお産婆さんに取り上げてもらった街なのだ。
「なぜ、今日まで、幡ヶ谷を訪ね、新宿まで歩かなかったのだろう」と。
不思議な気持ちに絡めとられた。
2014年3月4日午後は、「野口体操の原点」に立った記念日となった。
体操場、武道場、卓球場、プール、テニスコート、グランド、フットサルコート、等々、殆どのスポーツや体操ができる施設である。
ここはかつて東京教育大学体育学部があったところ。
遡れば、第二世界大戦末期につくられた「体専」の名で呼ばれた、官立の東京体育専門学校であった。
本日、野口三千三先生が昭和18年に助教授として赴任した、この地を訪ねることができた。
Web上で東京教育大学体育学部の写真を探し出すことができて、現在は渋谷区のスポーツ施設になっていることを突き止めたからだった。
大きなグランドがあり、広大な敷地であったことが想像できる。おそらく想像だが、隣接する高齢者施設までが敷地内であった気配である。
お腹が減って力が入らない体でありながら、野口先生は校舎の屋上に仁王立ちになって空を仰ぎ、負ける日本に無念を感じたというその場に立つことができた。
空襲にあった新宿の街が、炎に包まれるのを見ていたという。
目の前に西新宿の高層ビルがはっきりと見て取れる場所である。
私は、建物から出てグランドに立った。
思わず、深呼吸をした。冷たい空気が肺に侵入する。
先生は少なくとも4年~5年の間、ここの場所で過ごされたのだ。そう思うと何とも言葉にならない感慨が押し寄せる。
しばらくその場で佇んでいた。
「いっそ、新宿まで歩いてみよう」
昭和30年代には、幡ヶ谷にも初台にも友だちや知り合いが暮らしていて、西参道を通り越して歩いて来たものだった。かつて川が流れていて蛍狩りなどして遊んだ所は、今では遊歩道になってしまっている。
広々した渋谷区スポーツセンターを右に見て、しばらくしてから住宅街を左折すると甲州街道に出た。
街道を一気に新宿に向けて歩く出す。
代々木警察を通り越すと初台である。オペラシティーから真っ直ぐ歩き、「新宿区」の表示を見てから左折する。都庁の巨大な建物を正面にみながら歩き続けると、新宿中央公園の入り口に達する。
ついでに住友ビルに寄って「東京の水道の歴史」がわかるプレートを読み、巨大な水道管を眺めて、朝日カルチャーセンターに立ち寄ってみた。
つまりここは、淀橋浄水場の跡地に建てられた高層ビル群の一棟なのである。
ざっと30分くらいだろうか。
幡ヶ谷から新宿まで、戦争末期から敗戦後に野口先生も歩いただろう道を辿りながら、私は、焼け野は原に立って、“大地と自分が一体に感じられた”という『原初生命体としての人間』岩波同時代ライブラリー「インタビュー」冒頭で語られた言葉を反芻していた。
終戦は群馬の前橋で知ったという。そこから食料を背負って、幡ヶ谷までどのようにしてたどり着いたのか、まったく記憶が抜けていると伺った。
街の様相は変貌を遂げた。しかし、道はどんな細い道であっても、殆ど変わらないだろう。
朝の「ごちそうさん」のお蔭で、野口体操の原点を辿りたい気持ちが高まったことに苦笑しながら、或る種の後悔の念を抱いていた。
こんな近くにあって、両親が生まれ育った街であり、私自身も母と同じお産婆さんに取り上げてもらった街なのだ。
「なぜ、今日まで、幡ヶ谷を訪ね、新宿まで歩かなかったのだろう」と。
不思議な気持ちに絡めとられた。
2014年3月4日午後は、「野口体操の原点」に立った記念日となった。
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