羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

異空間『又』大駱駝艦公演

2014年02月03日 08時25分27秒 | Weblog
 住みたい町、吉祥寺。
 静かな住宅地に入っていくとば口に、異空間が出現する。
 ビルの地下、暗闇で蠢く白塗りの男女たち。
 実に面白かった。言っちゃいけないこと、おこられそうだけど、言ってしまおう。
「ある意味で、ピナ・バウシュの世界」より面白い。何故って、私が日本人だから。
 大駱駝艦で、舞踏を観た第一印象である。
 
 田村一行振鋳・演出・美術『又』、8名の踊り手による作品。
 舞台は、都会でもあり、田舎でもある。
 現代でもあり、過去でもあり、そして未来のある時でもある。
 時空間は異空間であった。
 当然、彼らは、彼女たちは、大人でもあり子供でもあり、幼児でもある。
 ふざけていて、大まじめで、人を食っていながら、食われていく。
 よくわかるようなわからないような幻惑を覚える。
 でも懐かしい。人間って、存在って、こうなんだ! 懐かしさをともなった感情で納得してしまう。
 
 大道芸のいかがわしさかと思えば、一方で、神に逆らいつつ神に祈りを捧げる行為でもあるをどりの世界だ。
 一人ひとりがとことん人間的で、とことん獣的で、皆の思いが一体となって、神がおわす異空間で祈りを捧げる遊びが繰り広げられる。

 突然だが、「石」とは、崖の象徴「厂」+祝詞をいれた器「口(サイ)」。甲骨文の殷の時代にすでにつくられている文字である。
 言いたかったことは、吉祥寺という街の日常に、穴をほって崖をつくり、舞台という名の祈りの器を置く。その行為、それが舞踏だと言わんばかりの舞台だった、ということだ。
 それはそのまま位牌である。「いはい」とは、元々、「示石」の一文字で記されるものであり行為でもある。 祖先を祭る場としての廟(みたまや)である。そこではタブーはない。素直な汚れない想像力があれば、何事も許されるはずだ。
 別の言い方をすれば、本来の「示石」とは、人々の憶いを遠慮もなく思慮もなく、存分に戯れごととして「をどる」行為が許される場なのだ。

 日本人が培ってきた芸能(をどる行為)として、この作品は、作品自体が、もっともっと磨き上げられることを願っている。もっともっと、研ぎすまされることを祈っている。
 そして、4名の女性の肉体が、観るものを日常へと引込む。をんなのからだは演じても演じても、“をんな”を捨てきれないことも面白い発見だった。やはり産む性の宿命を担っているのか。その肉体は、理性をもって制することはできない、と知らしめている。
 
 立春間近に、日曜の午後のひととき、よきものを魅せてもらった。
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2 コメント

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また♪ (さやか)
2014-02-03 15:01:07
昨日はご一緒できてたのしかったです!ありがとうございました!3年前のある日、田村一行先生のW.S.を数回にわたり受講する機会を得たのが舞踏との出会いでしたが、おしまいの日に「現在の舞踏について」おっしゃった言葉がありました。ほんのヒトコト、くらいのとても短い言葉でした。
印象に残ったけど、そのときは意味がよくわかりませんでした。
今回「又」という作品に出会えて、そのときの言葉の意味が少しだけ「見えた」・・・ような気がしました。
それはまた今度お伝えしたいと思います!
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ありがとうございます (羽鳥)
2014-02-03 19:11:00
こちらこそ何から何までお世話になりました。さやかさんのお蔭で、舞踏の世界を味わうことができます。これからもレクチャーをよろしく!
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