羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

本日は、暑さ負けか?

2010年08月17日 11時53分40秒 | Weblog
 先日ブログに書いた『銃・病原菌・鉄』上巻を読み終え、下巻を半分ほど読みすすめている。
 狩猟採集の移動生活から、農耕を始めて定住生活を紀元前に始めたメソポタミアの肥沃三日月地帯は、多くの楽器のふるさとでもある。野生植物の栽培化は、南北ではなく東西に伝播する。楽器もまた農耕技術・栽培植物と同じ移動をみせている。
 それは不思議でもなんでもない、と言ってしまうといささか味気ないが、それが事実というものらしい。
 世界の楽器と音楽文化の伝播は、東西方向への交流がまず基本となっている。
 日本に伝来した楽器と音楽は、歴史の中で邦楽化されたものの今では青息吐息の状況にある。明治以来行われてきた音楽の西洋化は、速い速度で伝統を押しやってしまった。とりわけ戦後の占領軍GHQ内CIE・民間情報教育局による政策は、見事に邦楽を駆逐していった、といっても過言ではない。加えて体育も同様の運命にあった。

 ごく最近になって音楽教育で邦楽を取り入れるようになったが、それを教える教師が西洋音楽の勉強しかしてこなかったという矛盾のなかで、上手くいくわけがない。
 これから実施される体育授業に武道を導入する政策も同様に危惧される問題が横たわっている。
 
 戦後六十五年たった現在の日本のあり様は、幕末に日本を守ろうと命を懸けた人々の思いと行動をはるかにしのぐところにまで到達してしまった。
 とはいえこれまで学校教育における体育や音楽が西洋化しても、言語までは手付かずだった。かつて日本語を廃してフランス語にしよう、といった明治人もいた。
 しかし、本来、耳の機能は保守的だ、と言われている。身体的立ち居振る舞いも、風土と伝統の暮らしに根付くものだ。日本語は守られたが、体育と音楽という二つの保守は西洋化された。この二つとも軍隊が関っている。兵士の訓練に導入された体育と整列行進をはじめ全員一致で動くことが苦手だった農民をまとめるための軍楽隊から入った音楽である。明治から教育の場で行われた体育と音楽は、軍事がもとになって普及した。つまり‘富国強兵’欧米列強から日本を守る国策に直結していた。

 では、言語はどうだろう。
 たとえば楽天が社内公用語を英語にしてグローバル企業化を加速させると言う。もしそれが成功すれば、そうした動きをみせる企業が増える。となればゆくゆく日本の公用語は英語になっていくに違いない。さらにドルが凋落して、元が覇権をとれば中国語が公用語となる可能性だってないとはいえない。

 日本語の命運は、すでに尽きているのだろうか。
 ある一部の伝統を背負う人々の母語としての日本語、社会の下層階級のことばとしての日本語だけが残っていくとしたら、それはもう‘日本’という国そのものの崩壊を招いていくことに他ならない。上手くいって香港のように、技術語としての英語と文化としての日本語が生き残っていく未来もありかも。
 
 こうしてみると教育現場は難しい。事実、時代の今と近未来を見据えて、大学では手を打ち始めた。
 若者にこう呼びかけている。
《農場へ行こう!》と。
 農業体験を薦めているのだ。それにともなって新しく農場を整備する動きは、昨年度から本格化した。もとは商学部が母体だった大学が、新たに農業を学生に普く推奨する前に‘クールジャパン’と‘英語教育’が充実している国際日本学部を新設した。
 
 いずれにしてもコンピューター、IT、英語(中国語)、農業、畜産、水産、医薬、鉱物資源開発の競争激化がすでに始まっている、ってこと。
 そのなかでも日本は一次産業を立ち直らせることが肝要、と読む。
 
 今日のブログの文章はあきらかに破綻!
 また、出直そう。
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