このところずっと「野口体操の会」 会報「早蕨 SAWARABI」Vol.4の原稿書きをしていた。
私が分担する「巻頭言」「野口三千三伝」「野口三千三語録」がまとまりを見せてくれている。
「三千三伝」では、師範学校生の少年時代から、青年期に差し掛かるところを書いている。
野口の戦争と向かい合っている毎日は、なかなか厳しい。
これから戦後にかけて、腹を据えて、覚悟をしておかなければならない、思いながら実は負けそう。
消し去ることのできない戦前・戦中を抱えて、自分の中の矛盾を自覚しながら、「野口体操」と呼ばれる体操を生きる三千三の戦後を想っている。
「俗」であること、「俗」の感覚を持ち続ける意味が、見えてくるのだ。
全てを吐き出すことはできない。
人生を浄化することもできない。
全てをなかったことにすることもできない。
抱え込んで、さぁ、野口よ! あなたはどう生きたかったのか?
私も逃げずに書かせてもらいます。
なぜ、自分が、多々ある身体アプローチの中で、野口体操にとどまったのか、わかり始めている。
キレイキレイの自分になれるわけもなく、悪いもの、否定したくなるのも抱えて生きていく“このからだ!”は、誰ものでもない自分自身が最後まで引き受けていかなければならないのだから。
どこまでも現実から目をそらさず、そこから見えてくる醜さ、聞こえてくる雑音、漂う臭気、苦い味、肌のザラつき。
五感で捉えられる、それらとは真逆のうるわしき感覚も、全てひっくるめて、丸ごと全体のからだ感を、今、手元に引き寄せている。
生きる醍醐味を日々感じて、「巻頭言」も「語録」も書くことが、楽しくなってきた私である。
自分のために書かせていただいている。
徹底的にスピリチュアルではない世界を生きた時、初めて本当のスピリチュアルに出会えるのだろか。
それとも、そんなことは、到底あり得ないのだろうか。
答えはまだ出ない。
もしかすると“中途半端”こそ命かも!
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