世の中には、”知る人ぞ知る○○”と称される人がいる。
世の中には、”知る人ぞ知る○○”と言われる事がある。
勿論、野口体操も知る人ぞ知る体操である。
そのことによって、少なくとも戦後60年間、知る人ぞ知る体操ゆえに支持してもらえた。
世間一般の常識からみると、どこかズレがある。
ズレがあるとしたら、野口三千三独自の自然観と人間観とからなる体操が、あまりにも「当たり前」を貫き通した結果生じることのように思う。
当たり前ということは、案外、社会の中で通用しにくいところがある。
当たり前に蓋をすることで、なんとかやり過ごし、やりくりして生きていることも多い。
さて、たわ言は、それくらいにして、九州鹿児島のNさんから教えられた中野一雄の著書を久しぶりの感動を持って読んだことを記しておきたい。
この実験音声学者は、1909(明治42)年。東京市下谷区根岸生まれ、2000(平成12)年京都没。日本の音声学・英語学の第一人者であった。
91年の生涯を、生き抜いた学者である。
Amazonから取り寄せた本を一気に読んだ。
今週の水曜日に、そのうちの一冊は鹿児島から贈られた。
一般向きするエッセーではないけれど、古今東西の文芸、英語学、言語学の造詣深さがにじみ出ている。
それだけにとどまらず、市井の人々の暮らしぶりが、大正・昭和・平成を通して描かれている。
三冊のエッセー
1988(昭和63)年03月『浮島物語』 ー抽象音声を駆使した物語風エッセー(79歳)
1989(昭和64)年01月『影太郎三態』ー抽象音声を基調とした物語風エッセー(80歳)
1989(昭和64)年11月『みみなぐさ』ー抽象音声を活用した物語風エッセー (80歳)
この「抽象音声」の概念が、よくわからない。わかろうわかろうとして読んでいるうちに、物語の面白さに引き込まれて、「抽象音声」への探究心は失われていった。
そのくらい柔らかな文章は魅力的だ。
恐れ多くも明治の日本人の凄さに頭を垂れる。
もう一冊は、英文と日本文で書かれている。
終戦後の連合国軍占領期にGHQの顧問だった親日派米国弁護士の記録。
1971(昭和46)年6月『ロイ・モルガンと日本』
中野一雄が見たロイの人柄を通して、敗戦後の日本がいかなる社会であったかが綴られている。
青史でもなく、かといって裏面史でもない。この当時の日本に起こった事実と真実を知ることができる良書である。
そんなわけで、今週は、先週に引き続き鹿児島土産の中野一雄著作を読むことを中心に、私の暮らしは回っていた。
おかげで大正・昭和前期・昭和後期・平成前期の歴史イメージが、急に豊かさを増した。
必ずしも野口三千三が生きた世界と共通しているとは言い難い。
それでも日本の社会の重なりの層を一枚二枚三枚とめくっていく面白さにワクワクする読書時間だった。
GHQ SCAP と渡り合った憲法の佐藤達夫・佐藤功、白洲次郎といった人々をはじめとして、敗戦直後から少なくとも7年間の占領期を支えた多くの明治生まれの日本人を改めて見直している。
「明治は遠くなりにけり」という言葉を随分前に聞いた記憶があるが、こうして歴史をたどってみると、私にとって「明治は近くなりにけり」と言いたくなってきた。
こうした著書を読みながら、野口が生きた時代の深さを感じている。
すると、なぜか理由はわからないが、野口三千三の遺言を思い出す。
『最近の西洋文化の流れの中で(流れそのものを尊ぶことは賛成)、「自然直伝」の価値観を重視して生きるように世の中を変えようと本気で思った時期もあった。が、一人ではムリだ。惨めに敗れた。どのように生まれ、どのように育ち、どのようにその価値観の中で、生きていくのかを、甘っちょろいことではなく、もっと厳しいことだと教えられた。価値観の変革は難しい。東洋・西洋と分けるのは嫌い。もうちょっとムリのない自然の価値観(つまり)同じ人間だから、同じ地球上の存在だから、自然の価値観で生きよう。自然という人間から、直接、「自然に貞いて生きるいちばんの中心原理」を教えてもらうべきだ』
最期の時を迎える少し前に、平成10年3月12日12時35分、病室のベッドに正座し、力をふりしぼって語られた言葉を筆に留めたもの。
口述筆記から一部を『野口体操 マッサージから始める』の「あとがき」に掲載させてもらった。
さまざまに絡まって、思いは巡る。
世の中には、”知る人ぞ知る○○”と言われる事がある。
勿論、野口体操も知る人ぞ知る体操である。
そのことによって、少なくとも戦後60年間、知る人ぞ知る体操ゆえに支持してもらえた。
世間一般の常識からみると、どこかズレがある。
ズレがあるとしたら、野口三千三独自の自然観と人間観とからなる体操が、あまりにも「当たり前」を貫き通した結果生じることのように思う。
当たり前ということは、案外、社会の中で通用しにくいところがある。
当たり前に蓋をすることで、なんとかやり過ごし、やりくりして生きていることも多い。
さて、たわ言は、それくらいにして、九州鹿児島のNさんから教えられた中野一雄の著書を久しぶりの感動を持って読んだことを記しておきたい。
この実験音声学者は、1909(明治42)年。東京市下谷区根岸生まれ、2000(平成12)年京都没。日本の音声学・英語学の第一人者であった。
91年の生涯を、生き抜いた学者である。
Amazonから取り寄せた本を一気に読んだ。
今週の水曜日に、そのうちの一冊は鹿児島から贈られた。
一般向きするエッセーではないけれど、古今東西の文芸、英語学、言語学の造詣深さがにじみ出ている。
それだけにとどまらず、市井の人々の暮らしぶりが、大正・昭和・平成を通して描かれている。
三冊のエッセー
1988(昭和63)年03月『浮島物語』 ー抽象音声を駆使した物語風エッセー(79歳)
1989(昭和64)年01月『影太郎三態』ー抽象音声を基調とした物語風エッセー(80歳)
1989(昭和64)年11月『みみなぐさ』ー抽象音声を活用した物語風エッセー (80歳)
この「抽象音声」の概念が、よくわからない。わかろうわかろうとして読んでいるうちに、物語の面白さに引き込まれて、「抽象音声」への探究心は失われていった。
そのくらい柔らかな文章は魅力的だ。
恐れ多くも明治の日本人の凄さに頭を垂れる。
もう一冊は、英文と日本文で書かれている。
終戦後の連合国軍占領期にGHQの顧問だった親日派米国弁護士の記録。
1971(昭和46)年6月『ロイ・モルガンと日本』
中野一雄が見たロイの人柄を通して、敗戦後の日本がいかなる社会であったかが綴られている。
青史でもなく、かといって裏面史でもない。この当時の日本に起こった事実と真実を知ることができる良書である。
そんなわけで、今週は、先週に引き続き鹿児島土産の中野一雄著作を読むことを中心に、私の暮らしは回っていた。
おかげで大正・昭和前期・昭和後期・平成前期の歴史イメージが、急に豊かさを増した。
必ずしも野口三千三が生きた世界と共通しているとは言い難い。
それでも日本の社会の重なりの層を一枚二枚三枚とめくっていく面白さにワクワクする読書時間だった。
GHQ SCAP と渡り合った憲法の佐藤達夫・佐藤功、白洲次郎といった人々をはじめとして、敗戦直後から少なくとも7年間の占領期を支えた多くの明治生まれの日本人を改めて見直している。
「明治は遠くなりにけり」という言葉を随分前に聞いた記憶があるが、こうして歴史をたどってみると、私にとって「明治は近くなりにけり」と言いたくなってきた。
こうした著書を読みながら、野口が生きた時代の深さを感じている。
すると、なぜか理由はわからないが、野口三千三の遺言を思い出す。
『最近の西洋文化の流れの中で(流れそのものを尊ぶことは賛成)、「自然直伝」の価値観を重視して生きるように世の中を変えようと本気で思った時期もあった。が、一人ではムリだ。惨めに敗れた。どのように生まれ、どのように育ち、どのようにその価値観の中で、生きていくのかを、甘っちょろいことではなく、もっと厳しいことだと教えられた。価値観の変革は難しい。東洋・西洋と分けるのは嫌い。もうちょっとムリのない自然の価値観(つまり)同じ人間だから、同じ地球上の存在だから、自然の価値観で生きよう。自然という人間から、直接、「自然に貞いて生きるいちばんの中心原理」を教えてもらうべきだ』
最期の時を迎える少し前に、平成10年3月12日12時35分、病室のベッドに正座し、力をふりしぼって語られた言葉を筆に留めたもの。
口述筆記から一部を『野口体操 マッサージから始める』の「あとがき」に掲載させてもらった。
さまざまに絡まって、思いは巡る。