羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

三千三の故郷 吉岡村以前の旧駒寄村(大久保集落)

2017年12月21日 17時21分06秒 | Weblog
 本日、国会図書館にいくことができた。
 本を検索し、著作権に抵触しない範囲でコピーを持ち帰った。
『駒寄村史』昭和5年(非売品)、群馬縣群馬群駒寄村役場 である。
 全ページがデジタル化されていて、館内コンピューターでの閲覧だった。
 杉並区中央図書館でもWeb閲覧は可能だったが、印刷は出来ないようだった。
 直接、出かけていった甲斐があったというもの。

 最初のページに、野口三千三と父親が生きた時代の雰囲気が如実にあらわれている古い「駒寄村略圖」が掲載されていた。
 明治から開校した小学校の報告のなかに体育運動の状況、教育方針や年中行事等の記録もある。
 村民生活状態の変遷などは、短い文章のなかに、この時代でしか書けない内容が記されている。

 印刷の注文もコンピューター上で出来るシステムになっていて、本に栞を差しこんで頼むより楽にだった。
 最近では、二回目なのだけれど、操作を忘れていて、今回も係の方の世話になった。

 郷土史なしに歴史はわからないことが身にしみる昨今で、『吉岡村史』と『駒寄村史』を合わせ読んで、三千三伝を書くためのイメージを拡げていきたいと思っている。

 大正10年、上越線の高崎ー渋川間が開通した。
 国勢発展の結果、国防上、産業上の必要に迫られて、国営として建設されることが決定したのが大正8年のことだったん、と記載がある。
 高崎ー水上までの全線の予算は1950万円とのこと。清水トンネルの竣工次第で、昭和3年に全通した。

 さて、大正10年といえば三千三7歳、昭和3年は14歳である。
 鉄道の開通は、どれほど喜ばしかったことだろう。
 その数年後に意気揚々と師範学校の門をくぐることになる。

 モノクロ地図を繰り返し眺めていると、昨年に歩いて知った段状の高低差が、身体感覚のうちに甦ってくる。
 地図上の「ブラタモリ」ならぬ「ブラハトリ」。
 当時の生活状態と昭和5年の地図を読み合わせると、三千三が生きていた村の様子がみえてくるような気までしてくる。

 これはほんに、本日の収穫です!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする