物質から生命が生じたからには、物質と生命をつなぐ「何か」が想定されなければならない。
若くして亡くなった研究者に田中豊一という方がおられた。マサチューセッツ工科大学教授で「ゲル」を中心に物質と生命の境界の研究もされていた。田中氏を失ったことで、この研究は遅れてしまった。
田中氏の文章から引用させていただく。
『1992年に、高分子ゲルが多重相を取りうることが見つかりました。ゲルが多重相をとるということは、生体高分子の構造や、機能の原理に深く係わっており、そこに、「生きもの」と「もの」の境が見えてくるのではないだろうか』と田中氏は、『生命現象と物理学』朝倉書店1995年に書いている。
詳しい話はここには書かないが、生命にとって「ゲル」というのは、ひとつの重要なキーワードであるといえる。
食べ物には、寒天・蒲鉾・心太・ちくわ・ゼリー・ソーセージなどがあり、人間の身体に目を向ければ、目の角膜・硝子体・結合組織があり、気管や胃などの体腔内の表面もゲルで覆われていると同書には書かれている。
で、私が『原初生命体としての人間』を読んで、最初に引っかかってしまったことは「相の概念」だった。
野口先生は、つぎのように書かれている。
『物理学では「物質がとり得る集合状態に固体・液体・気体の三種があり、それを物質の三状態という。また、相の概念の立場からは、固相・液相・気相とも呼ばれている。第四の状態としてプラズマ状態をあげる」と総括している。これは純粋物理における理論である。したがって、生きもののからだの基礎理論としては不充分であって、どうしてもコロイド学の立場を基礎としなければならない』
コロイドは物質の種類ではなく、物質の状態をあらわす概念であるとつづくのだが、このような見方が・考え方によって「体液主体説」にたどり着き、「寝にょろ」や「状態のぶらさげ」における「動きの質」「中身の変容」を問題視する野口体操は、従来の体操や身体観とは、別次元に切り込んだ体操だと思っている。
人間の骨もコロイド学の立場にたてばゲルの状態で、いわゆる固体ではないという発想は、この本を読んだ当初驚きの一言だった。
難しい!といえば難しいのだが、ここをしっかりおさえないことには、野口体操への理解は浅薄なものになるだろうと、今でも思っている。
分からないながらも、最近になって研究がすすみ、さらに一般にも手に入る本として出版されるようになった数冊の本を手元に置いて、読み返しているのだが。
若くして亡くなった研究者に田中豊一という方がおられた。マサチューセッツ工科大学教授で「ゲル」を中心に物質と生命の境界の研究もされていた。田中氏を失ったことで、この研究は遅れてしまった。
田中氏の文章から引用させていただく。
『1992年に、高分子ゲルが多重相を取りうることが見つかりました。ゲルが多重相をとるということは、生体高分子の構造や、機能の原理に深く係わっており、そこに、「生きもの」と「もの」の境が見えてくるのではないだろうか』と田中氏は、『生命現象と物理学』朝倉書店1995年に書いている。
詳しい話はここには書かないが、生命にとって「ゲル」というのは、ひとつの重要なキーワードであるといえる。
食べ物には、寒天・蒲鉾・心太・ちくわ・ゼリー・ソーセージなどがあり、人間の身体に目を向ければ、目の角膜・硝子体・結合組織があり、気管や胃などの体腔内の表面もゲルで覆われていると同書には書かれている。
で、私が『原初生命体としての人間』を読んで、最初に引っかかってしまったことは「相の概念」だった。
野口先生は、つぎのように書かれている。
『物理学では「物質がとり得る集合状態に固体・液体・気体の三種があり、それを物質の三状態という。また、相の概念の立場からは、固相・液相・気相とも呼ばれている。第四の状態としてプラズマ状態をあげる」と総括している。これは純粋物理における理論である。したがって、生きもののからだの基礎理論としては不充分であって、どうしてもコロイド学の立場を基礎としなければならない』
コロイドは物質の種類ではなく、物質の状態をあらわす概念であるとつづくのだが、このような見方が・考え方によって「体液主体説」にたどり着き、「寝にょろ」や「状態のぶらさげ」における「動きの質」「中身の変容」を問題視する野口体操は、従来の体操や身体観とは、別次元に切り込んだ体操だと思っている。
人間の骨もコロイド学の立場にたてばゲルの状態で、いわゆる固体ではないという発想は、この本を読んだ当初驚きの一言だった。
難しい!といえば難しいのだが、ここをしっかりおさえないことには、野口体操への理解は浅薄なものになるだろうと、今でも思っている。
分からないながらも、最近になって研究がすすみ、さらに一般にも手に入る本として出版されるようになった数冊の本を手元に置いて、読み返しているのだが。