朝の予報ではずっと曇りで、ときどき雲の切れ間から日が差すぐらいと言っていたが、嬉しくもその予報は外れ。朝のうちこそ、雲が多かったが正午前から青空のほうが多くなった。予定していたとおり、今日はカメラを持って行徳臨海部の様子を見に行く。
トップページのレポートに使わなかった写真から。
千鳥橋を渡ったところのニトリとユニディ。ここも液状化の被害が出た場所。
駐車場の大きなコブのようにアスファルトが盛り上がった箇所があったのは修復されていたが、全体に波打った感じはまだまだ残っていた。
湾岸道路と京葉線を過ぎて、臨海部の奥へ。
埋立地の突端まで来て振り返ったところ。
臨海部全般で歩道の修復は終わっていた。護岸側も舗装が直されていたが、すぐそばには近づけないよう仮設の柵は設けられたままだった。
漁港付近は立ち入ることができる。修復もされていた。
漁港の様子。以前と変わったという感じはしない。
市川塩浜駅付近の様子を見て、今井橋通りのほうから帰る。
塩浜橋で丸浜川を渡る。菜の花の黄色が目に付いた。季節はどんどん春に向かって進んでいる。
ダイエー南行徳店1階にあるコメダ珈琲店で昼飯。空席ができるまで十数分待ちだった。
ここは去年の4月末に一度入っている。名古屋本拠のチェーンと聞いていたし、名古屋名物のみそカツのサンドがあったから、それを食べたらすごいボリューム。晩飯の時間ごろまで腹に残っている感じだった。
なので今回はオーソドックスなところでハンバーガー(380円)にする。それとブレンドコーヒー(400円)。コーヒーのほうが高い。それだけ、いいコーヒーだということなのだろう。
コーヒーのほうが先に来た。豆菓子が付いてくるが食べ物の調理に時間がかかるので、時間つぶし用だと思われる。
コーヒーが来てから7、8分後にハンバーガーが来た。これもハンバーガーチェーンのものよりかなりでかい。
真ん中で半分に切ってあるが、その断面。半分でマクドナルドの無印のハンバーガー1個分ぐらいと思えた。
値段といい、注文を受けてからの調理といい、コメダ珈琲店という店は喫茶店やハンバーガーチェーンというよりもファミレスだと思えた。
買い物をして家に帰り、デジカメの画像をPCに移して、トップページレポートの作成にかかる。
去年の3月11日に地震が発生した午後2時46分が近づいてきた。追悼式をやっているはずだとテレビを付けると、NHKで中継していた。
午後2時46分の時報とともに1分間の黙祷。自分も時報のときにテレビ画面を写して、そのあとは一緒に黙祷する。
1時間ぐらいテレビを付けていたが、岩手・宮城・福島各県の遺族代表による追悼の言葉を聞いている間は心に重いものがどんどん入ってきて、手が止まった、いや、何もできなくなった。
トップページレポートは午後4時過ぎに出来上がってUPする。大震災で行徳地域にこういうことがあって、そしてそれからどうなっていったかの一つの記録だ。
晩飯は南行徳駅前へ行って、なか卯できつねうどんとライスとつけもの。自分がよくやる"勝手にきつねうどん定食"。
それから今日の日記にはもう一つ、書いておこうと思っていたものがある。
去年の3月11日のこと
去年の3月11日の日記はPHSからメール投稿したものだった。年休消化ということで、金曜日に休みを取って箱根の温泉にのんびりつかろうと出かけたのだった。芦ノ湖畔で地震に遭遇。予約した宿になんとかたどり着いて、そこから投稿した。
地震がなければ、帰ってから写した写真でその日のことを追記するところだが、そういうことも頭から消えてしまった。でも、自分にとっても大変な日だったし、その日がどんなだったか、何を考えていたか、記憶があやふやになる前に書いておこうと思った。
8時45分か50分ぐらいの小田急ロマンスカーで新宿を出発。
箱根湯本。2009年の3月に来たときは工事中だったので、ずいぶんきれいになったと思った。
今回は登山電車には乗り換えず、バスで芦ノ湖畔へ向かった。
行ってみようと思っていたのは箱根関所跡。中学の修学旅行で来て以来だった。
展示を見学。
地形を利用した見晴台から。斜面の草の部分には雪が残っていた。
さらに資料館も見学し、そのあと旧街道の杉並木を歩いて元箱根へ。
ちょうど正午頃。深生そばという店に入る。
ワカサギフライの定食を食べる。
そのあと成川美術館を見学。
成川美術館の建物には芦ノ湖が眺められるラウンジがあった。
観光船(海賊船)に乗るまで時間があったので、上の写真で湖畔に赤い鳥居が小さく見えるが、その箱根神社へお参りしてくることにした。
成川美術館や昼飯を食べた店の近くにある箱根神社の一の鳥居。鳥居越しに駒ケ岳が見える。
箱根神社。湖沿いの参道から境内へ上がる石段。
箱根神社の拝殿。まわりが樹木であまり日が当たらないためか、残った雪の量が多かった。
午後2時10分過ぎに元箱根を出る海賊船に乗る。船が到着。
桟橋に接岸。
船内から駒ケ岳。
船内では全然動き回らず、ずっと座っていた。この先、桃源台から大涌谷を経由して、強羅へのケーブルに連絡する早雲山までのロープウェイが、大涌谷~早雲山間が定期点検中でバス代行という掲示がしてあった。
デッキへ出てみるとかいったことをする気にならず、じっと座っていたのはなぜだろう。もしかしたら、このあと起こることへの虫の知らせだったのかもしれない。いや、そんなものではなく、単に急ぎ足で箱根神社まで往復で数百メートルを歩いてきたから、くたびれただけだったか。
桃源台は船とロープウェイとバスの乗り継ぎ拠点で、他に何かあるわけではない(建物の中に食べ物屋はある)。旅の記録にと一旦、建物の外に出て写真を写す。
この画像のタイムスタンプは午後2時43分。すぐにロープウェイに乗らず、こうやって写真を写していたおかげで、乗っているときに揺さぶられたり、緊急停止で宙吊りになったりしなかったのは幸いだった。
そして、そのときが来た。切符を買ってロープウェイに乗ろうと列に並んでいたら、どうも揺れている。最初はロープウェイが通るから揺れるのかと思ったが、すぐに地震だと気付いた。すると、大きな揺れが来た。そのとき、耳に残っている音は、
「ドンドンドンドン、ドンドンドンドン」
というもの。あるいは、
「ガンガンガンガン、ガンガンガンガン」
だったような気もする。そんな感じの音がロープウェイ乗り場に響いた。揺れの体感よりも音のほうが記憶に残っている。
ロープウェイは恐らく自動で緊急停止。揺れが治まったら係員2人(写真)が飛び出して行った。
カメラはストラップで首にかけていたから、すかさず写した。まだ、どんな地震が起こったのかは分からない。だから、単に旅の途中の1ハプニングを記録して、あとから日記に書こうというつもりで撮影した。もし、揺れがもっと強烈でロープウェイ駅の建物が崩壊でもしたら、とても写せない。いや、もう生きていないかもしれない。
自分も含めて乗ろうとしていた人たちは、ぞろぞろと売店や切符売り場のほうへ一旦、引き上げた。とんだハプニングに「あーあ!」という雰囲気だった。通勤時間帯の電車が信号機故障や人身事故で止まっても、だいたい30分とか40分で回復するから、ロープウェイもそれぐらいで動くだろうと、そのときは思っていた。他の人たちもそうだったのではないかと思う。
みやげ物その他を売っている売店でコーヒーを買い、イートインコーナーで飲む。
PHSのブラウザで地震の情報を見ようとするが、ニュースページはなかなかアクセスできない。そうするうちに会社からの安否確認メールが届く。自分の勤務先の会社は、そういうメールを送信するサービスをやっている会社と契約している。こういうのが来るということは、東京方面もかなりの揺れがあったということだろうと思った。それで、コーヒーを飲みつつ、今いる場所のことを返信メールで送る。
そんなことをしているうちに、2回目の大きな揺れが来た。今度も、
「ドンドンドンドン、ドンドンドンドン」
という音が記憶に残っている。
すると、駅係員が「建物外に出てください!」と叫び、全員が外に出された。残ったコーヒーもそのままにしてあわてて外に出た。ハンドスピーカーを手にした駅員が地震の情報を話し始めた。事務室のテレビなどでようやく情報が入り始めたのだろう。東北地方の強い地震で、駅員が言うには、
「この建物が崩壊するぐらいの揺れです!」
だった。それで、また強い揺れが来るかもしれないということで、建物外に一旦、退避させられたのだ。風がちょっと冷たかったが、雨でなくてよかった。
箱根地域でも交通機関はすべてストップしていることが分かってきた。そんな状況ならロープウェイがしばらく待てば動くというのは期待できない。恐らく、東京方面に行けるかどうかも難しいだろうから、とにかく予約した強羅の宿にたどり着くしかないと早急に決断した。
これも幸いだったが、路線バスは午後3時半ぐらいには動き出した。湯本へ下るバスの2台目に来たのに乗ることができた。観光用マップを見て、宮の下まで下れば登山電車の駅がすぐだと分かったので、とにかく宮の下まで行くことにする。満員で座れず、よく揺れる後輪のあたりに立ったままだったが、しんどいとは思わなかった。桃源台のロープウェイ駅で外に出されたとき、周りにいた若い人間が「こういう時って、テンション上がるよね。」と友達同士で言っていたが、確かにそうだ。自分もテンションが上がっていたのだ。
途中で、強羅坂下というバス停を過ぎてから気が付いた。そこで降りれば強羅は1キロの距離らしかった。もっともずっと上りの1キロだろうけど。もっと箱根の地理に詳しければ、降りて歩いたかもしれない。
ようやく宮ノ下に到着。降りるときに運賃を払おうとしたら、払わなくていいと言われた。こうした非常事態では、そういう運用になっているのかもしれない。
登山電車の宮ノ下駅。午後4時20分。
登山電車は止まっていた。駅員に聞くと、線路点検中であと数十分が1時間ぐらいは動かないとのこと。強羅に宿を取っていることを告げると、ホームに止まっている電車内でお待ちくださいということだったので、待たせてもらうことにした。電気は来ていて車内は暖房も入っていた。
待っている間に予約してある宿に電話して、遅くなるが行くつもりであることを連絡する。震災のとき、PHSは通じやすかったということだが、宮ノ下駅からもちゃんと通じた。それから、大阪の親にも連絡を入れる。母親はテレビで見て、千葉のほうで石油タンクが燃えていると言っているが、千葉の地理に詳しくないので、どこなのかは分からないという。これが市原の石油コンビナートだったのだが。今日は東京方面は無理だろうから、とにかく予約してある宿へ向かうと言っておく。
箱根登山線は全線の路線長がそんなに長くないので、線路の点検も早く終わったようだ。17時ちょっと前には運転再開となった。自分も含めて何人かが車内で待っていた電車は湯本方面行きホームに止まっていたほうなので、その電車は山を下って行った。しばらくして、登ってきた電車に乗る。
でもまだ、全線再開ではなく、強羅の一つ手前の彫刻の森までしか行かないという。その先、線路沿いで土砂崩れがあったらしい。だとしても彫刻の森と強羅は高低差がほとんどなく、距離も500メートルぐらいだから、歩いて強羅まで行くことは可能だ。
彫刻の森駅に到着して、強羅へ向けて歩き始める。
土砂崩れは線路に沿った道路で起こっていた。もともと地盤が弱い場所で、地震の揺れで崩れたそうだ。これは、その少し手前からズームを望遠にして。
自分の前を歩いていた人が、土砂崩れの脇で立ち止まり、首からぶら下げていた一眼レフでその様子を写そうとしたが、警官が抱きかかえるようにして無理やり先へ行かせた。たしかに、また揺れが来たら、再び崩れるのかもしれないのだから立ち止まるのは危険なのだ。恐らく、写そうとした人も、その時点では地震についての詳しい情報は持っていないから、まだ旅の途中でちょっとしたハプニングに遭遇したという気分だったのだろう。
2009年に来たときと同じ、強羅駅そばにあるホテルパイプのけむりに着いた。
これがこの日に写した最後の写真。
チェックインして部屋のテレビでようやく、どんな地震が起こったかが分かってきた。そして想像以上に恐ろしい事態であることが分かると、もう写真を写す気も失せてしまった。それまではまだ、旅の途中のハプニングを記録しておこうという気持ちがあったのだ。
のんびり楽しむはずだった温泉も、とてもそんな気分ではなくなった。着いたのが予定より遅かったし、とにかく汗を落として持ってきた下着に着替えるためだけに大浴場へ行く。でも、湯に浸かったのは2分か3分だった。もう晩飯の時間になりつつあったためか、他には誰もいなかった。宿は午前中から食事の用意は進んでいたから、バイキングもちゃんと食べることはできた。しかも大変なときなのに、妙に食欲だけはあってむしゃむしゃ食べた。やはりテンションが上がっていたためか、あるいはこうした状況で生物としての生存本能が刺激されてしまったためかもしれない。そして、落ち着かないから酒も飲んだ。でも、2009年のときみたいに、飲み食いしたものを写そうという気持ちは消えていたから、カメラは食堂へは持っていかなかった。
次の日(3月12日)は、登山電車も全線で運行だったし、東京方面の小田急もJRも本数は減っているが運行を始めたので、時間は要したが家に帰ることができた。もし、2010年の2月のように鬼怒川温泉だったら、北関東は鉄道もなかなか回復しなかったというから、すぐには帰れなかったかもしれない。
3月12日も写真を写そうという気持ちにはならず、南行徳を降りて街の様子が変わっていないのを見て、ようやくカメラを出して写したのだった。