<日本庭園。(足利学校)>
52歳の誕生日の時に思った。小生の気になる人物たちが52歳の時には何をしていたか、ということを。源義経、坂本竜馬、高杉晋作などは若くして亡くなっているので対象外だ。織田信長も49歳直前で本能寺で斃れたので対象外。信長が生きていたら、52歳の時はなにをやっていたか。という仮定の下に戦国時代を振り返ってみるのは非常に興味のあることだが、それはまた別途。
今回は鎌倉以前の時代から以下四人の人物を選んでみた。
◆藤原清衡・・・西暦1108年に52歳。後三年の役を経て、奥州の実力者となり、居を平泉に構える。この年に、中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、奥州藤原氏四代百年の栄華の基礎を築いた。
清衡さん、いい仕事してますね。
◆西行・・・1170年に52歳。この年は恐らく弘法大師の故郷、讃岐は善通寺の裏山に庵を結んでいた。白洲正子氏は以下の歌をここで詠んだと推測している。
ここをまたわれ住み憂くて浮かれなば
松はひとりにならんとすらん
曇りなき山にて海の月見れば
島ぞこほりの絶え間なりける
そう言えば、「讃岐・阿波を走る!」の紀行文はこの西行庵跡に辿りついた所で終わっている。続きを書かねばと思いつつ一年が過ぎてしまった。
◆平清盛・・・西行と同年なので1170年に52歳。1167年、49歳の時に太政大臣になったが、三ヶ月で返上し、翌年、出家する。後に遷都することになる福原(神戸)に別荘を建てたり、厳島神社の整備や日宋貿易の拡大など、清盛全盛期である。また、この頃は後白河法皇とも表面上は協調路線をとっており、まさにわが世の春であったようだ。一門の平時忠が「平家にあらずんば人にあらず」と言ったのもこの頃ではなかったか。
◆源頼朝・・・1199年に52歳。木曾義仲、平家を倒し、それら一連の戦に功のあった、弟の義経、範頼を討ち、奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開いて、さあこれから、というこの年に亡くなっている。史実では、
【建久9年(1198年)12月27日、相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は落馬と言われるが定かでは無い。建久10年(1199年)1月11日に出家し、13日に死去した。享年53(満51歳没)。】
ということになっているが、小生は後に執権になる北条一族の謀殺ではなかったかと、勘ぐっている。頼朝の亡くなる時期のタイミングがよすぎるからだ。しかも、頼朝の息子達も暗殺されたり、殺されたりと後を絶たれ、北条氏が実権を握るのである。