日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「勘違い」。「時間厳守」。

2009-01-08 07:55:26 | 日本語の授業
 さて、昨日、久しぶりに学校へ行きますと、初っぱなからいろいろなことが起こります。8時半前後に、一人、ウッカリ屋のお嬢さんが、電話をかけてきました。

 「先生、学校はいつからですか」
 「いつでも大丈夫ですよ。今日来ますか」
で、
 「へへへへへ…。明日…ね」

 9時少し前に、もう一人、元気よく、
 「おはようございます。明けましておめでとうございます」
と、やって来ました。

 「ん?!」
と、辺りを見回して、
 「先生、まだだれもいないの」
 「授業は明日からです」
 「えー!今日からだって、○○さんが言ったあ。」
らしいのですが、肝心要の○○さんは、来ていません。一人で、ぶつぶつ言っているので、
 「どうしますか。帰りますか。学校で勉強しますか」
と聞くと、途端に、ニコニコ顔で、
 「学校で勉強して、帰ります」
というわけで、12時過ぎに、わざわざご飯を外へ買いに出、また戻ってきて、学校でゆっくり食べてから、
 「じゃあ、明日また」
と帰っていきました。ご苦労なことです。学校で勉強していたので、「はい、気分転換」とばかりに雑用もさせられていましたし。

 新入生が、私が留守をしていた間に、(一人を除いて)皆来ているようです。6日までに、事務的なことはだいたい終わり(入寮に伴うことも)、後は今日の入学式を待つばかりです。

 ただ、ガーナから来ている学生は、「ひらがな」が入っていないということで、若い先生が事前指導。その先生曰く、
「どうも、時間の観念が少し違うようだ。昨日(一昨日)は、9時半と(私が)言ったのに、9時に来て、今日(昨日)は、9時と言ったのに、9時15分に来た。これからのこともあるから、注意しとかなきゃ」

 「これからのこと」というのは、「課外活動」のことです。だいたい月に一度、忙しいとき(「留学生試験」や「日本語能力試験」のある月)でも、二月に一度は、学校の外へ行きますから、「時間厳守」というのが本当に大切なことになります。

 ただ、この学生の場合は、日本で働いている叔父さんが、「祖国で必要とされる、農業を日本の大学で勉強させたい」といって呼んでいるので、それほど心配していません。この叔父さんというのは、自分で会社を作って成功したのではなく(つまり、日本にいても、「自分たちの文化圏の中でお金を儲けた」というのではなく)、日本の会社で日本人と一緒に仕事をして、ある程度の収入を得ているのです。日本人の習慣などが判らなければ、これはなかなかできることではありません。こういう人の紹介でしたら、安心です。日本人のことが判っているでしょうから。

 昨年は、ペルーの学生、その前はスリランカの学生、そのまた前は中国の学生と、みんなを待たせても「平気」の人が少なからずいました。だいたい、日本語がきちんと習得出来ている人は(各レベルのクラスにおいて)、日本人が時間を守る習慣があるということを、理解できているので、まず、遅れません。

 授業の時も、教師が「しなさい」ということをして、(日本語力が)伸びてきているので、教師が言う通りにしていれば、(日本では)間違いがないだろう、自分のためになるだろうと予測できるわけです。

「1分遅れようが、20分遅れようが、関係ないじゃないか」などと言うことなかれ。これは、日本で生活していく上での、「適応力」とも、日本人との「協調性」とも関係してくるので、なおざりにはできないことなのです。

 誰にとっても、時間は大切です。学校での活動だけではありません。仕事をする場合でも同じです。1分遅れても、20分遅れても、遅刻は、遅刻です。「あれは時間を守ることのできない奴」という評価がすぐに下されます。

 毎日を慌ただしく生活している学生にしてみれば、「今日は学校へ行かなくてもいいのか」と、もしかしたら、どこにも行かずにゆっくりと部屋で寝ていたいでしょう。けれども、そういう学生達にも、「やはり、行ってよかった。きれいなものも見られたし、知識も増えた。友達と自由に話せて楽しかった」と言ってもらえるよう、教師の方でも計画を練っているわけですから、遅れてもらうと困るのです。

 「富士山」や「日光」へ行くときには、最初の10分か20分遅れたために、計画が大きくずれ込むということにもなりかねません。10分か20分、遅れたせいで、ラッシュに巻き込まれたら、一時間か、悪くすると二時間ほども(到着が)遅れてしまうということさえあるのです。近場の都内見学でも、同じです。一人が10分遅れれば、時間通りに来た人達は、その間、イライラしながらずっと立ったまま待っていなければなりませんし、本来ならば、三つほども楽しめるところを、(時間が足らなくて)一つか二つ、端折らなければならなくなる場合さえ、あるのです。

 のんびりした国から来た学生達も、こういう「約束事」を守っていくことを通して、少しずつ日本に「適応」していきます。「うるさいな。10分や20分遅れたぐらいで、文句を言うな」と、これすら守れないという人は、日本では、だんだん孤立していくしかないでしょう。多分、大方の日本人は「時間を守らない人に寛容ではない」でしょうから。

 この学校に来た学生達が、この後も日本でうまく生活していくためにも、特に時間に関しては、「鉄は熱いうちに打て」を実行していくしかありません。結局は学生達のためなのですから。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「謹賀新年」。「『お天道様』へのお願い」。

2009-01-07 07:59:29 | 日本語の授業
 明けましておめでとうございます。

 遅ればせながら、ぎりぎり「松の内」に間に合ったような按配で…。

 おめでたいことは、何度繰り返しても良いものです。落語でも「おめでたい言葉」がなかなか習得出来ない「アンちゃん」がよく登場します。「おめでたい言葉」というものは、確かに人の心を明るくしてくれるものですし、そういう言葉を聞いて「気分転換」ができる人が一人でもいれば、それはそれなりにすばらしい「人助け」ですから、何も言うことはないのですが…。

 しかしながら、それによって、「捲土重来」を期せるかというと、そういうものでもありません。

 日本も、これまで、一見「波静か」であり、凡人には、こういう大きな変化になりそうな「予兆」すら見えなかったのですが、今では「隠そうとしても、隠そうとしても」現れてきているという状態です。一旦こうなってしまいますと、トコトン膿を出し、しかるべき「プロの職人」に任せて、どうにかしてもらわなければ、大変なことになる…と、きっとみんなそう思っているのでしょう。

 ところが、その「プロの職人」を探し出せないのです。きっといる、きっといるはずなのです(それは、「『歴史』が、その時代に必要な人材を必ず生み出している」はずだからです)。が、いったいどこにいるのでしょう。

 難しいところは、人々が、こうも「太平楽」な暮らしをし(これまでのことです)、勝負の世界はいざ知らず、「プロ」も「アマ」もないような状態になっていますと、実際の処、誰に助けを求めて良いのかわからないのです。

 「本物を見分ける目」というのが、大半の人から失われているのです。マスコミなどでもて囃されているからといって、その人が、「プロの職人」と称することができるかというと、必ずしもそうであるとは限りませんし…。

 「素人の目」から見れば、ある一定以上の線を越えていれば、つまり、物事に関する知識があれば(「偽物」で、ただ「聞き囓った知識」を玩んでいるだけの人であろうと)、皆同じに見えてしまうのです。誰が「本物」で、誰が「紛い物」なのか、見分けがつかないのです。その人が、ただ「知識」があるだけで、正確な「現状認識」と「未来に対する予測」、そして「対処法」を講じることができるかどうかなど全く判らないのです。ただ不安だから、耳を傾けようとするだけで、その人に「洞察力」があってもなくても、おそらくは構いますまい。

 「『知』の職人」さんは、不必要な「塩」や「砂糖」といった「余計なもの」を加えて、「もの申したり」はしません。けれど「『紛い物』で、対手の表情を見て、言葉の加減をする人」なら(マスコミに受けるとなれば)、何を言い出すか判ったものではありません。

 本来ならば、新聞などの「第四の権力者」が、そういう判断を下せる「本当の知識界における職人」を捜し出し、人々が己の道を歩んでいくための「道しるべ」と為すべきなのでしょう。が、それも、ドンドンずれているような気がします。

 「政治」や「経済」は、人々の生活に直結するものです。「お金」は、「至上」ではなくとも、「お金」で得られる「幸福」というものも、確かに存在します。

 今の時代の「政治家」に、昔の政治家(井戸塀政治家)のように、「わが身を抛って」何事かを為せとは、言えませんが、国民が、もう少し、荒波に揉まれ、切磋琢磨し、然るべくして、「国政という大舞台に上がった」という人を期待するのは、過分な要求でしょうか。

 「経営者」にしてみても、「金を儲けたい」というのが、偽らざる心情でしょうが、儲けさせてくれる(「働かせてもらっている」ではありません)「社員」、そして、買ってくれる「購買者」を忘れたら、いつの間にか、何もかも「液状化現象」のようになってしまい、ハッと気づいたときには、誰からも相手にされなくなってしまったということにもなりかねません。

 人というのは、弱いものです。何事かを始めれば、始めた頃には、(判らないものですから)いろいろなことに目を配ります。けれども、それで何とかなりそうだとなったら、途端に視野が狭くなるのです。それ以外は認められなくなるのです。昔の人が言ったように「愚か者は、己の経験に頼る」ようになってしまうのです。そして、「金儲け」が面白くなり、「会社存続」が「錦の御旗」となり、「そこで働く人々」が「将棋の駒」となり、そして、その人は「怪物」になってしまうのです。

 今年は、「人が人である」ことを自覚でき、「生まれてきてよかった」と思えるような出来事が、一つでも多く、見聞きできるような年でありますように。そして、そのささやかな一つ一つに、喜びを見いだせますように。

 己が身を顧みながら、そう「お天道様」にお願いしています。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする