今朝も雨。だんだん小降りになってきましたから、学生達が来る頃には止んでいることでしょう。
この学校に通っている学生達のほとんどは、学校のすぐ近くに住んでいます。大半は自転車か、歩きで、学校へやって来ます。勿論、電車通学の学生もいることはいるのですが、少ない。
「あれ?あなたは電車なの」と驚くほどに少ないのです。ただ、ホームペ-ジを見て来たとか、友人の紹介でという人は、電車ですね。しかし、電車で来ると言っても、二駅ぐらい乗るだけですから、それでどうのこうのと言うほどのことはありません。
ところで、気が短くて、人の好き嫌いがはっきりしている、私のような人間が、「教職」に就いていますと、様々な「厄介事」が生じてきます。別に「薬罐」というほどではないのですが、「生来の性」という奴が厄介なのです。
嫌だと思ったら、もうどうにもならない。自分のそういう気持ちを、力ずくで折り曲げるか、一枚皮を被ってしまうかしないことには、そのまま、顔に出てしまいます。
そんな私ですが、そこはそこ、そんな自分を抑えるための自衛策というのを持っています。カーッとなったとき、己の悪しき性分を落ち着かせるために、念仏のように唱えるのです。
つまらないとお思いになる事なかれ。これを何回か唱えていると、毒が体中に回ってしまう前に、ムクムクと盛り上がってくるこのどうしょうもない気持ちが、自分から、そうだ、そうだ、その通りだ。おまえが悪い」と鎮まってくれるのです。
「直ぐなると 用ゆる斧も 曲がらねば 立たぬ屏風も 世の中ぞかし」(『耳袋』)
そうだ、そうだ。人はさまざま。みんな、そのままでいい。それで、世の中は立派に成り立っているのだから、区々たるおまえが、文句を言う筋合いのものではない。
「思ふべし 人はすりこ木 身は杓子 思ひ合わぬは われ歪むなり」(最明寺時頼))
相手だけに非があるのだろうか。おまえに問題があるから、このような結果になるのではないのか。頭を冷やせ。己を顧みよ。
「曲がりても 杓子はものをすくふなり 直ぐなやうでも 潰す摺子木」(四方赤良)
唯我独善に陥っているのではないか。「自分は間違っていない」と思うことが、すでに「悪」を孕んでいるのではないか。真っ直ぐだから、それで良いとは限らない。周りを見よ。一歩退け。おまえのやり方で、本当に良かったのだろうか。
「おまえ」とは「私」のこと。呼びかけているのは、おそらく何層か下の「私の心」でしょう。
「われながら 心の果てを 知らぬかな 捨てられぬ世の また厭わしき」(藤原良経)
「心」を見る「心」。「『心』を見ている『心』を見ている心」。これは永久に続くのでしょう。
蓮葉にたまった露に映った景色。その景色を湛えた露をまた映す露。どこまでも繰り返されていきます。「小」の中に宿る「大」。どこまでの「深さまで下りていけば、自分の本当の核である「心」を捉えることができるのでしょうか。
その心は「海ほど深い」とも、また「宇宙と同じくらい広い」とも、言われます。
そういえば、
「宇宙はどれくらい広いの」
と聞かれた親が、
「君の心と同じくらい広いのだよ」
と答える素敵なコマーシャルがありましたが…。
心という奴は、どれほど深いのか、海のことすら判らない人間には、永遠の謎なのでしょう。また、それ故にこそ、自分自身を責めるのも「心」、褒めるのも「心」。自分自身を育てていくのも、結局は自分の「心」なのでしょう。
日々是好日
この学校に通っている学生達のほとんどは、学校のすぐ近くに住んでいます。大半は自転車か、歩きで、学校へやって来ます。勿論、電車通学の学生もいることはいるのですが、少ない。
「あれ?あなたは電車なの」と驚くほどに少ないのです。ただ、ホームペ-ジを見て来たとか、友人の紹介でという人は、電車ですね。しかし、電車で来ると言っても、二駅ぐらい乗るだけですから、それでどうのこうのと言うほどのことはありません。
ところで、気が短くて、人の好き嫌いがはっきりしている、私のような人間が、「教職」に就いていますと、様々な「厄介事」が生じてきます。別に「薬罐」というほどではないのですが、「生来の性」という奴が厄介なのです。
嫌だと思ったら、もうどうにもならない。自分のそういう気持ちを、力ずくで折り曲げるか、一枚皮を被ってしまうかしないことには、そのまま、顔に出てしまいます。
そんな私ですが、そこはそこ、そんな自分を抑えるための自衛策というのを持っています。カーッとなったとき、己の悪しき性分を落ち着かせるために、念仏のように唱えるのです。
つまらないとお思いになる事なかれ。これを何回か唱えていると、毒が体中に回ってしまう前に、ムクムクと盛り上がってくるこのどうしょうもない気持ちが、自分から、そうだ、そうだ、その通りだ。おまえが悪い」と鎮まってくれるのです。
「直ぐなると 用ゆる斧も 曲がらねば 立たぬ屏風も 世の中ぞかし」(『耳袋』)
そうだ、そうだ。人はさまざま。みんな、そのままでいい。それで、世の中は立派に成り立っているのだから、区々たるおまえが、文句を言う筋合いのものではない。
「思ふべし 人はすりこ木 身は杓子 思ひ合わぬは われ歪むなり」(最明寺時頼))
相手だけに非があるのだろうか。おまえに問題があるから、このような結果になるのではないのか。頭を冷やせ。己を顧みよ。
「曲がりても 杓子はものをすくふなり 直ぐなやうでも 潰す摺子木」(四方赤良)
唯我独善に陥っているのではないか。「自分は間違っていない」と思うことが、すでに「悪」を孕んでいるのではないか。真っ直ぐだから、それで良いとは限らない。周りを見よ。一歩退け。おまえのやり方で、本当に良かったのだろうか。
「おまえ」とは「私」のこと。呼びかけているのは、おそらく何層か下の「私の心」でしょう。
「われながら 心の果てを 知らぬかな 捨てられぬ世の また厭わしき」(藤原良経)
「心」を見る「心」。「『心』を見ている『心』を見ている心」。これは永久に続くのでしょう。
蓮葉にたまった露に映った景色。その景色を湛えた露をまた映す露。どこまでも繰り返されていきます。「小」の中に宿る「大」。どこまでの「深さまで下りていけば、自分の本当の核である「心」を捉えることができるのでしょうか。
その心は「海ほど深い」とも、また「宇宙と同じくらい広い」とも、言われます。
そういえば、
「宇宙はどれくらい広いの」
と聞かれた親が、
「君の心と同じくらい広いのだよ」
と答える素敵なコマーシャルがありましたが…。
心という奴は、どれほど深いのか、海のことすら判らない人間には、永遠の謎なのでしょう。また、それ故にこそ、自分自身を責めるのも「心」、褒めるのも「心」。自分自身を育てていくのも、結局は自分の「心」なのでしょう。
日々是好日