日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「菫色の空」。「『掃除』から判る、学生の状態」。「生活指導」。

2009-01-22 07:55:20 | 日本語の授業
 小糠雨よりももっと疎らで、湿気が「身体にまとわりついているだけ」としか感じられないような雨です。それも、消防署の角を左折する頃には、ほとんど止んでいましたから、夕べからの「名残の雨」だったのでしょう。

 昨日、学校が終わり、午後の学生達が帰る頃には、まだ降り出していませんでした。雨催いの空を眺めながら、
「ああ、せっかく傘を持ってきたのに…」
と愚痴る学生の姿もちらほらしていました。多分、天気予報を見て、これは傘を持って行かなくてはと思ったのでしょう。

 最近は季節を問わず、急に降り出したり、或いは黙り込んだりのお天気が続いるような気がします。これも温暖化のせいなのでしょうか。とは言いましても、大きく外れることはなく、せいぜい二三時間降るのが遅れたり、早まったりという程度なのですが。

 昔は「馬の背を分ける」とも言われたくらい、同じ「町内」でも、同じ「丁目」の中でも、降っている所と降ってはいない所とが、はっきりと「目に見えた」そうです。少し遠くから見ていると、そこだけ黒雲が覆い、暗いのです。その横では、お日様が照って、青空で、カンカン照りというふうに、歴然としていたそうです。今でも、一駅先で下りると、「えっ。地面が濡れている」と驚いたりすることもあるのですが、水の多い国、日本ならではの事なのかもしれません。

 そんなわけで、雨上がりの早朝の空は、「菫色」でした。朝早く出るということは、暁の空の変化が見られるということで、「役得」ならぬ「時得?」があるのですが、それがないというのは少々寂しい。ですが、「菫色一色」の空というのも、なかなか乙なものでした。

 さて、今日は木曜日ですから、「ゴミ出しの日」です。この学校では、教師が掃除をしているのですが、これはとても大切だと思います。学生の心の状態というのが、「ゴミの出し方」とか、「ゴミの中身」とかからも窺えるのです。それに、机の上に消しゴムのカスが多ければ、(見ていなくても)自然と、一生懸命に書いたり消したりを繰り返している姿が想像できて、微笑ましくなってしまうのです。

 というのも、この学校には、「非漢字圏」の国から来た学生が少なからずいるからなのです。特に「アルファベット」を主にしている国から来た学生の中には、「話せれば、事足りるはずだ」と誤解している学生もいて、なかなか筆を手にしようとしないのです。その人達の、「書いて覚えようとしている」という変化が入実に現れてくるのが、この「机の上の消しゴムのカス」なのです。(私たちには、誰の席かが判っていますから)

 その他にも、こういう些末な事から、生活指導の面で、注意しなければならないことが発見できたりもするのです。「生活指導」と、一口で言いましても、まず、「全体」で注意しなければならない事と、各「クラス」、或いは、「個々人」で注意を促せば足りることとに、分けておかなければなりません。

 自分もそうだったのですが、皆さんもそうでしょう。わずか一人のために何で全員が注意されなければならないんだと思われたことがおありでしょう。

 ただ、「誰がそれをしたか」が判らなかったときや、その人の「プライド」に関わるような時には、その人の属する「クラス」か、或いは「全体的に」注意をするという場合もあります。子供ではないのですから、基本的な日本語さえ分かっていれば、「それは自分の事だ」と判ります。判って、それから、もうしなければいいのです。

 学校というのは、人を「管理」して、何事かを為すという場所ではありませんし、警察のように、「犯人を見つけなければならない」という所でもないのですから。

 こういう注意をするのも、みんなが「気持ちよく勉強できる環境を作るため」なのです。それから、もう一つ。「日本では、そういうことをしたら、やっていけない」ということを、伝えるためなのです。

 日本語が、多少話せるようになると、皆、短時間でもいいから働きたいと言い出します。経済的に、そうしなければならないということもあるでしょうが、「武者修行」という意味あいもあるようです。使いたくなるのです、学んだ日本語を。それに、日本語の勉強に要するお金くらいは自分で稼ぎたいという気持ちもあるのでしょう。

 その時に、自分の国のやり方をそのまま持ってきて、日本で何事かをしようとしても、それは無理な話です。何もできません。互いに「悪感情」を抱き合って終わりと言うことにもなりかねません。それは、日本人が海外で(旅行ではなく)、何事かをしようとして、その地の人達と摩擦を生じさせてしまうのと同じことです。単なる「旅行」や「留学」でしたら(働かずに)、それは「お客さん」で、その地の人達の「(経済的な意味での)利」になるだけで、「損」には、なりませんから、当然「大切」にされます。けれども、その地の人達と、競合しなければならなくなったときには、その地のやり方を知っていた方が強い。

 まあ、そういうためだけでもないのですが、何か起こったときには、やはり、今、いる日本の「習い」を知っていた方がいい。知った上で、その通りにするかどうかは、その人の問題です。教えておくまでが、学校の、ある意味では「義務」なのです。

 「日本語学校で日本語を学ぶ」とは、よく言われることですが、単に「日本語を学ぶ」だけではないのです。

日々是好日

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