日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

子供なら、放っておいても、「学習修得言語」が修得できる?

2008-09-10 08:07:48 | 日本語の授業
 今日も昨日に続いて、ゆっくりと歩いてきました。歩くと自転車では見えなかった景色が見えてくるものだと言いますが、出勤という慌ただしさの中にも、確実に、そうですね、見えてくるものがあります。玄関先にちょこなんと行儀よく座っている猫(主人を送った後でしょうか)や、散歩のイヌ(主人を引っ張っている躾の出来てないものや、もうかなりの年なのでしょう、同じように年老いた主人と一緒にとぼとぼと歩いている老犬などもいます)。アスファルトを敷いた駐車場の、そのわずかな隙間から、たくましくも生え上がっているエノコログサなど、どこか郷愁をそそられる景色ばかりです。

 私には、エノコログサを見ると、手折りたくなるという習性があります。とはいうもののは、このエノコログサはという奴は、三・四本束になってしまうと、ちっとやそっとの力では折れる事じゃありません。引き抜くなんてのも、もってのほか。そんじょそこらの力自慢ががんばったって、軍配が上がるのはあっちの方というくらいしぶとい、所謂雑草なのです。

 それでも、私は、エノコログサやカンスゲなどの、ふわふわした雑草が大好きで、ナイフやはさみなどで切っては、それを使って猫と遊んだものです。ただ、これは家の中に持ち込んでしまうと、厄介なのです。すぐに枯れて種が飛び散ってしまいますから、掃除が大変なのです。そうなってしまうと、不実な猫はとんずらしてしまいますから、私一人が残され、怒られてしまうとい惨めなことになってしまいます。

 それから、小さい頃はオタマジャクシとカエルの区別なんてつきませんから、オタマジャクシを拾ってきて、こっそり飼い、カエルになって叱られたなんてことも、よくありました。

 昔は、田舎のちょっとした小川には、川蛭がいて血を吸われたりもしたのですが、源五郎やメダカや鮒なんかもいましたから、いつも子供で賑わっていました。夏になると、大人も交えての蛍狩りも当たり前でしたし、蛍を蚊帳の中に放つなどといったことも、至極普通に行われていました。

 その様相が一変したのは、テレビのチャンネルが増え始めた事と関係があるのではないでしょうか。チャンネルが少なかった頃は、啓蒙的なものやドキュメンタリーのようなものが多く、子供が手を出したくなるような気分のものではなかったのです。見ても、「勉強」といった感じになってしまい、子供が求める「面白い」の世界とは無縁でしたから。それは、すなわち、子供がテレビから「自由」だったということなのです。

 しかしながら、テレビには「放映される決まった時間」というものがありました。ところが、昨今は、時間に制約されることなく、テレビ番組を見ることができます。これはますます便利になり、ビデオが発売されたと思ったら、次はDVD、そして、今は、好きな時に好きなものを呼び出すことができるものまで発売されています。

 大衆が、科学の恩恵を十分に受けられるようになるのは、すばらしいことです。しかし、便利さの陰には、それと相反する「負の部分」も必ず存在します。大人はまだいいのです。自分で自分を「縛ること」もできるし、ある種の「価値判断」を下せもするでしょう。

 では、子供はどうでしょう。まだ、原始人、いわゆる、発達段階にある子供が、「過程」を経ずに、インターネットや携帯、ゲームに捉えられてしまったらどうなるでしょう。

 ネットにはまり込んだり、ゲームにのめり込んだりしてしまうと、その前の段階をしっかりと経験していない子供は、自制がきかなくなってしまいます。そのままズルズルと底なし沼に沈んでいくのがオチです。

 では、どうしたらいいのでしょう。まだ、本能で生きている段階ですから、「快、不快」が判断の決め手となってしまいます。「不快」な事を、理を以て説明しても、わかるはずがありません。それは「面白い」事ではないのですから。

 こんな時、他人ではだめです。子供からそれを取り上げたり、遊ぶ時間を決めたりすることができるのは、親だけなのです。特に日本にいる外国人の場合は。

 もちろん、親の方にその危険性についての自覚がなければ、無理ですし、子供との間に信頼関係が構築されてなければ、子供は親の言うことなんぞききはしないでしょう。

 この問題が、小学校や中学校の途中で日本へ呼ばれてしまった外国人の子弟に(つまり、戸籍の上の問題ではなく、日本で生まれ、日本で育ち、日本語を日本人の子供達と同じように学びながら育った子供達ではない、子供達の事です)、起こった場合、処置が本当に難しいのです

 外国人の子弟が、義務教育の年齢に(私は高校卒業までは、まだその社会で生きるための基礎的なことを学んでいなければならない年齢だと思うのですが)、日本へ呼ばれてしまうと、「学習習得言語」が構築されていないまま、日本語を学ばなければならないと言うことになってしまいます。日本語が出来ないのですから、学校の勉強も解らないのです。中国人夫婦の場合、中国においてくるか、或いは、親が高学歴であれば、母親が中学校くらいの内容は、母語で教えられますから、それほど問題にならないのですが。

 母親にそれほどの学力がない場合は、大変です。

 たとえば、日本人であった場合、日本人は、外国ですぐに日本人学校を作ってしまいます。子供を、外国へ連れて行った方がいいのかを、まず一番に考え、次に、連れていくとしたら、現地にちゃんとした学校があるのかどうかを見ます。そして、現地の日本人学校の教師の質を問うのが最後。これをクリアしたら、連れていくことになるのでしょう。そして、受験期には、受験の二年くらい前には、日本に戻してしまいます。欧米などの先進国でしたら、現地の学校に預けることもあるでしょうが、そうでなければ、ほとんどの親は現地の「日本人学校」に預けます。

 しかし、この東アジアのように、親が教育に関心を持つ地域というのは、世界的に見れば、少ないのです。子供が外国に、その国の言葉も話せないのに、ポンと放り込まれ、そこで心身ともに苦しむ…であろうことを、想像できない親御さんも多いのです。

 子供は、放っておいても育つし、育ったらすぐに、働き手と見なされるのが普通なのです。親だってそうだったのですから、自分の子供にも同じことをするでしょう。教育にお金をかけるなんてとんでもないと、考えている外国人の親御さんも、今、日本にはゴマンといるのです。

 「子供なら、言葉は放っておいても、すぐ上手になれる」というのは、本当でしょうか。努力もせずに上手になれるものなのでしょうか。

 ペラペラと流暢に日本語を話している高校生くらいの外国人の青年に、「本を読んでごらん」と言うと、これまた、淀みなく読んでのける。聞くと、「小学校の高学年の頃から日本に来て、中学校も日本の学校へ通った。でも、高校入試に失敗した」というのです。

 初めは、「こんなに日本語が上手なのに、どうして高校受験に失敗したのか」が、解りませんでした。全く日本人の子供達と同じに見えるのです。「話す」のも、「聞く」のも、「読む」のも。それで、もう一押しと、読んだ本の内容、指示語とかも含めて、聞いてみると、全くと言ってよいほど、答えられないのです。

 彼は「学習習得言語」が、習得出来ていなかったのです。こういう子供達が、今、確実に日本で増えています。戸籍も日本人で。

 高校を卒業して、日本に、「日本語」を学びに来ている外国の子弟たちが、たとえ日本語は、流暢に話せなくても、読めなくても、母語という「学習習得言語」を持っている限り、何不自由なく、日本でのアルバイトをこなしているのを見るにつけ、「日本の小中学校で(途中からであれ)、学んだ経験を持つ」彼らの将来を、危ぶまずにはいられません。

日々是好日
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