日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「かつて生きていた人々」に対する態度

2008-09-16 08:01:08 | 日本語の授業
 今朝は、雨の中を歩いてきました。それもいつの間にか霧雨のようになり、着いた頃には止んでいました。

 先週の土曜日、いつものように授業を終えた後、久しぶりに友人と会いました。Uターンしたのかなと思われるくらい、連絡がなかったので、電話があった時には本当に驚きました。聞けば、まだ渋谷のマンションは残してあるとのこと。二・三ヶ月に一週間だけ、東京に戻ってくるとのこと。

 理由を聞くと、お母様の病気のせい…。認知症が少しずつ進行し、目を離すわけには行かないのだそうです。ただ最初は嫌がっていたディサービスも最近は喜んでいくようになったということで、暗い一方というわけでもなく、それなりに毎日を過ごしていると言っていました。

 「老い」というのは、誰にでも訪れるものです。人間がこのように機械文明を発達させたが故に、初めて、多くの人が「老いる」という状態に直面するようになりました。

 ただ、そういう「『老い』という文化」は今までなかったものですから、自分の中でも「あるがままにあること」を認めるのは、辛いことです。その人の周りにいる人々にとっても、同じように辛いことです。けれども、現実に「老い」というものは、確実に存在しますから、逃げようがないのです。

 「老い」はともかく、まだ「精神」が存在しますから、将来的は「明るいもの」になるかもしれません。

 しかしながら、それに付随して、避けることの出来ない「死」について考えるのは、今の日本人にとって、それほど自然なことではないのです。

 だれもが「昨日今日とは思わざりしを」とため息をつきながら、受け入れるほかないのです。肉親の死ですら。

 日本にいれば、ほとんど目にすることのないもの、それは「ヒトの屍体」です。交通事故に遭って、死者が出ても、テレビはその「かつて生きていた人の身体」を映しません。路上に運悪く投げ出された時も、すぐにシートがかぶせられます。「屍体」は、たとえ人としての「尊厳」を失った状態であっても、まだ「人」なのです。ものは言わねど、決して「人であることをやめた存在」ではないのです、日本人にとって。

 外国ではそうではありません。中国にいる時も、「『人の屍体』を『物体』として見ている」と感じさせられたことが何度もありました。おそらく、自分の身体や、肉親の身体は別なのでしょうが、他者においては、もはやすでに「人ではない」のです。

 戦時中ならいざ知らず、戦争のない国で…どうしてなのか解りませんが。イズム教育ばかりが盛んで、情操教育がおざなりになっていたのかもしれません。しかし、こういう部分は「国」による教育云々というよりも、伝統的な文化であるような気がしてならないのですが。

 たとえば、世界でも有名な仏教国があります。そこの人達は優しく、穏やかで熱心な仏教徒だと、日本人の誰もが思っています。しかし、彼らにしたところで、戦いになれば人も殺しますし、だれかが自分の「秘密、乃至悪口」を他の人に言ったとなれば、血眼になって「犯人」を捜し出そうとします。人が一変してしまうのです。これは、「荒々しい人が荒々しいことをする」のとは違い、見る者にある種の恐怖感さえ与えてしまいます。

 けれど、彼らにしてみれば、古くからそう行ってきたにすぎないのであって、「自分たちの事をそう思いこんで、賛美している日本人ほど愚かなものはない」ということなのでしょう。

 人間が抱く、「『思い込み』より来たる『他者のイメージ』」というものほど、頼りなく、あやふやで、罪作りなものはありません。全く実態と関係なく、「『A』だから、きっと『B』だ」と、決めつけてしまうのですから、怖ろしい限りです。

 異なった風土、文化、歴史を生きぬいてきた民族を(しかも、それぞれがまた、個別の生い立ちを持っているわけですから)、自分たちの思考回路に則って、取り込み、枠にはめ込もうとしてしまうのです。相互理解を口にしながら、相手の「ありのまま」を見ずに。いえ、一旦こうなってしまったら、もう相手の姿なんて、何も見えなくなってしまうでしょう。人間は、すばらしいけれど、愚かでもあります。

 たとえ、その人に殴られても、「いや、彼が殴ったのではない」なんてことも、言い出しかねません。

 「死者」に対する感慨もそうです。「日本は平和だから」ではないのです。古くからの、しきたりや習慣、死者に対する思いなどが綯い交ぜになって、こういう感慨を抱くようになり、このように死者と向き合っているのです。

 第二次世界大戦は、このような「日本」から見ると、とんでもない「イクサ」でした。ものを記録するようになってからも、それ以前から考えても、おそらくは、とんでもない汚点となる「イクサ」でした。どうして、このような歴史を持つ国が、あのように、世界中を敵に回して人を殺し始めたのかと、日本の歴史をひもとく者はきっと不思議に思ってしまうことでしょう。

 しかも、肉食の習慣がほとんどなかったのですから、「動物の解体ですらままならぬという民族が」です。

 ある人が「どの民族でも、民族ごと狂う時代がある」と言っていましたが、あの頃が、日本にとってそうなのでしょうか、秀吉の頃と共に。

 また、雨が降り出しました。台風の影響で前線が活発になっているのでしょう。今日は一日、重い雨に降り込められてしまうかもしれません。

日々是好日
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