日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「春、いずこ」。

2012-02-13 08:45:58 | 日本語の授業
 曇り。
 また冬に戻りそうです。ただ風はほとんど感じられません。梅が咲き始めようとも、水仙が疾うに満開になっていようとも、青いはずの空が厚い雲に覆われて、陽射しが全く感じられませんと、「春いずこ」という気分になってきます。

 確かに立春は過ぎました。その前日、節分の日には豆も撒きましたし、巻き寿司も食べました。けれども、カレンダーを見やれば、春分はまだまだ先のこと。しばらくは、この状態のまま一進一退していくのでしょう。

 「目に見えるものは、いつも他の何かを隠している」。だれでしたっけ、確か画家の言葉だったような。もっとも、画家ならずとも、人はフッとそう思うときがあるようです。見えぬものなら、素知らぬ顔をしておいた方が(「見ぬこと清しですし)よかろうものを。見えたものから、見えないものを探ろうとすると、却って罪作りをしたり、されたりすることになりかねません。

 だいたい、探り出したと己が思ったものでさえ、事実とは言いきれず、もしかしたら単なる己の認識(あるいは妄想)の描きだした淡雪のようなものであるかもしれぬのです。

 それよりも、
「なんと 丸い月が 出たよ 窓」(放哉)
と言って喜んだ方がいい。
「久しぶりの雨だ 雨だれの音」(放哉)
「雀のあたたかさを握る はなしてやる」(放哉)

 放哉にしても、寂しい句が多い中で、勘ぐらぬ素直さから出た優しさや微笑ましさが出た句もあるのです。どうせなら、そういう面だけを、そのままに見ていた方がいいのかもしれません。

 どうしても、教員なんぞをしていますと、対象となる学生たちを「見なければ」ならないことが多く、人は自然に抱かれた生き物に過ぎないなぞと、口ではほざいていても、「どうしてこうするのか」とか、「ここは改めさせねば」などと、先走って考えたりしてしまうのです。木々や花を見たり、風を感じたりするように、人を見ることができないのです。

 時々、自分は、以前から「こうだったのかな」と思うことがあります。もう少し、人を懐かしげに見ていたような気がするのですが、どうなのでしょう。人を見ようとし、そして見つけた諸々に文句を言っている間に、自分の本性がわからなくなってしまっています。

 そこは大らかに、
「子ども叱るな 来た道だもの。年寄り 笑うな 行く道だもの」とやった方がいいのかもしれません。

 冬の終わりを告げる花々が咲き、木々の新芽が膨らみ始め、今、正に春を招き寄せようとしている時ですし。

日々是好日
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