月形半平太の、「春雨じゃ、濡れて参ろう」が浮かんでくるような、小糠雨です。おそらく半平太の時の雨は、もう少し、服の上に光の粒が見えるような、中くらいの大きさの雨粒だったのかもしれません。今日は、しかとはわからぬほどの小ささで、見たところ、傘を差していたのは、20人中1人くらいでしたし。冬の雨なら、普通皆、少しでも濡れるのを厭います。つまりそれほどでもなかったのです。今朝の最低気温は4度、最高気温は8度で、昨日と比べれば3度から4度ほども高い。これなら多少濡れても、いいか…だったのでしょう。
さて、学校の「一月生クラス」のことです。だいたい「初級Ⅰ」の頃は、教員にとって、月曜日の朝が難関、箱根の関所くらいの難所です。特に、一二時間目は難所中の難所。前の週に、月火水木金とリズムをつけて、毎日勉強して(三日くらいは必ずその課の復習を入れていますから)いるので、木金辺りになりますと、教える方もちょいとばかり、楽になっているのです。
それが、月曜日の一二時間目は、オチャラになっている…ああ。ニックキは休みである土曜日曜であります。母国で、家で勉強する習慣のない(学校に来て座っていれば、おそらくそれで充分であったのでしょう)学生たちに、授業とは別に二時間ほど学校に来させて、テープを聴かせたり、宿題をやらせたりしていても、土曜日曜で振り出しに戻ってしまうのです。
月曜日には何も覚えていなくとも(もちろん、ゼロではありません)、ニコニコして全く困ったふうをしてくれない学生の顔を見ていると、なんとなく、焦っている自分の方が愚かに思え、「まっ、いいか」という気にもなってくるのです。が、ある程度の日本語が話せたり、聞き取れたりしていませんと、アルバイトの面接に行っても、それこそニコニコと「またね。上手になってから来てちょうだい」と言われてしまうだけです。
こういう人たちは、もともと生活力が、それほどないのかもしれません。「昔に比べれば…」といつも言われている今の中国人留学生にしても、男であれ、女であれ、彼らに比べれば、ものすごい生活力を見せてくれます。
ただとても素直なのです。まるで田舎の坊ちゃん、嬢ちゃんといった様子で、叱られても抗うこともなく、困った顔をして座っています。そして叱りながらも彼らのその様子に微苦笑を禁じ得ない私たちの、そんなわずかな変化に、直ぐに気がついて、「いいじゃないの、怒らないで」とばかりに、またすぐにニコニコし始めるのです。
もちろん、それだけで終わりというわけでもなく、彼らには彼らなりの闇もあるのでしょうが、今のところ来たばかりの人たちにはそれは感じられません。
来日後二三年も経って、すっかりスレッカラシのようになってしまった人たちにも、皆こういう時期はあったのでしょう。そして来日後直ぐの、その時期に、どういう人たちと出会うかで、大きく、それからの人生の道は分かれることになってしまったのでしょう。
本当に、特に外国で過ごすことを選んだ人たちにとって、その地で、どういう人たちと出会うかは大きな問題です。だって、異なる地へ行くことによって、それまでの自分と切り離されてしまうことになるのですから。もう困ったからといってお父さんやお母さんが直ぐに飛んできてくれることはできませんし、知り合いや手蔓を頼んで、どうにかしてもらうこともできないのですから。
その上、過去と切り離されても、直ぐに新しい「個」をその地で築けるほど、人は強くないわけですし。だから、最初は、どうしても同国人や同郷の人間が互いに惹きあうことになり、自然に群れてしまうのでしょう。互いがどんなに遠くにいても、心が欲しているから、直ぐにわかるのです、同郷の人間のいる所が。どんなに急いでいても、どんなに多くの人の中にあっても、片言でも故郷の音が聞こえれば、それで思わずハッと振り返るほどに、敏感になっているでしょうし。
そして自然に集まった群れの中で、在日の長い人たち(つまり多くの情報を持っている人間)と連絡を取れる者が、アルバイトにしても、金儲けにしても、大きな顔をし始め、そしていつの間にか彼自身が顔役のようになって行き、人を顎で使うようになるのかもしれません。
最初は(同国人、同郷人で)群れていても、日本語がわかるようになるにつれて、その群れから、学校でのクラスメート、アルバイト先での友達のグループへと、居場所を移すことができれば、異国へ来たことは決して無駄にはならないのでしょうけれども。自分自身も変わることができたわけですから。
ただクラスの中で一つの国から来た人が半分以上を占めていたり、アルバイトが順調に探せていなかったりしますと、(傷を舐め合うには、言葉がおなじ者同士の方がいいものですから)また元の木阿弥になってしまいます。
こうならないためにも、まずは、日本語に一生懸命になってもらわなくてはなりません。
日々是好日
さて、学校の「一月生クラス」のことです。だいたい「初級Ⅰ」の頃は、教員にとって、月曜日の朝が難関、箱根の関所くらいの難所です。特に、一二時間目は難所中の難所。前の週に、月火水木金とリズムをつけて、毎日勉強して(三日くらいは必ずその課の復習を入れていますから)いるので、木金辺りになりますと、教える方もちょいとばかり、楽になっているのです。
それが、月曜日の一二時間目は、オチャラになっている…ああ。ニックキは休みである土曜日曜であります。母国で、家で勉強する習慣のない(学校に来て座っていれば、おそらくそれで充分であったのでしょう)学生たちに、授業とは別に二時間ほど学校に来させて、テープを聴かせたり、宿題をやらせたりしていても、土曜日曜で振り出しに戻ってしまうのです。
月曜日には何も覚えていなくとも(もちろん、ゼロではありません)、ニコニコして全く困ったふうをしてくれない学生の顔を見ていると、なんとなく、焦っている自分の方が愚かに思え、「まっ、いいか」という気にもなってくるのです。が、ある程度の日本語が話せたり、聞き取れたりしていませんと、アルバイトの面接に行っても、それこそニコニコと「またね。上手になってから来てちょうだい」と言われてしまうだけです。
こういう人たちは、もともと生活力が、それほどないのかもしれません。「昔に比べれば…」といつも言われている今の中国人留学生にしても、男であれ、女であれ、彼らに比べれば、ものすごい生活力を見せてくれます。
ただとても素直なのです。まるで田舎の坊ちゃん、嬢ちゃんといった様子で、叱られても抗うこともなく、困った顔をして座っています。そして叱りながらも彼らのその様子に微苦笑を禁じ得ない私たちの、そんなわずかな変化に、直ぐに気がついて、「いいじゃないの、怒らないで」とばかりに、またすぐにニコニコし始めるのです。
もちろん、それだけで終わりというわけでもなく、彼らには彼らなりの闇もあるのでしょうが、今のところ来たばかりの人たちにはそれは感じられません。
来日後二三年も経って、すっかりスレッカラシのようになってしまった人たちにも、皆こういう時期はあったのでしょう。そして来日後直ぐの、その時期に、どういう人たちと出会うかで、大きく、それからの人生の道は分かれることになってしまったのでしょう。
本当に、特に外国で過ごすことを選んだ人たちにとって、その地で、どういう人たちと出会うかは大きな問題です。だって、異なる地へ行くことによって、それまでの自分と切り離されてしまうことになるのですから。もう困ったからといってお父さんやお母さんが直ぐに飛んできてくれることはできませんし、知り合いや手蔓を頼んで、どうにかしてもらうこともできないのですから。
その上、過去と切り離されても、直ぐに新しい「個」をその地で築けるほど、人は強くないわけですし。だから、最初は、どうしても同国人や同郷の人間が互いに惹きあうことになり、自然に群れてしまうのでしょう。互いがどんなに遠くにいても、心が欲しているから、直ぐにわかるのです、同郷の人間のいる所が。どんなに急いでいても、どんなに多くの人の中にあっても、片言でも故郷の音が聞こえれば、それで思わずハッと振り返るほどに、敏感になっているでしょうし。
そして自然に集まった群れの中で、在日の長い人たち(つまり多くの情報を持っている人間)と連絡を取れる者が、アルバイトにしても、金儲けにしても、大きな顔をし始め、そしていつの間にか彼自身が顔役のようになって行き、人を顎で使うようになるのかもしれません。
最初は(同国人、同郷人で)群れていても、日本語がわかるようになるにつれて、その群れから、学校でのクラスメート、アルバイト先での友達のグループへと、居場所を移すことができれば、異国へ来たことは決して無駄にはならないのでしょうけれども。自分自身も変わることができたわけですから。
ただクラスの中で一つの国から来た人が半分以上を占めていたり、アルバイトが順調に探せていなかったりしますと、(傷を舐め合うには、言葉がおなじ者同士の方がいいものですから)また元の木阿弥になってしまいます。
こうならないためにも、まずは、日本語に一生懸命になってもらわなくてはなりません。
日々是好日