日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「信頼関係を築くための『一年半』」。

2009-11-12 08:42:14 | 日本語の授業
 昨日は、一日中雨でした。けれども、とうとう「雷様」はお出ましになりませんでした。というわけで、学生達の「日常」は続いています。

 就学生というのは、二年間が普通です。もっとも、この学校では一年に四度募集していますので、そこは、二年、一年九ヶ月、一年半、一年三ヶ月という、期間で見れば四段階の学生達がいることになります。日本語の能力がある程度ある、日本へ行っても不自由しないと思えば、一年くらいで先へ進もうという学生も出てきます。それもまた人情でしょう。

 ただ、在籍していても、一年目は、「日本に馴れ、そして、学校のやり方にも、教師個々のやり方にも馴れ」する期間ですので、この期間を共に過ごしていない学生には、次に進む時にその指導に困ります。

 受験までの一年半(10月くらいから入試は始まります。その準備なども入れれば、まず一年半と見るべきでしょう)を共に暮らしていれば、その間楽しいことばかりというわけにはまいりません。叱りつけなければならないこともありますし、そこまで行かなくとも嫌な気持ちにさせなければならないことくらいはあります。それも、一度や二度では収まりません。様々な事件が発生します。とは言いましても、やめて帰国するとしない限り、就学生の場合、逃げられないので、ここにいて、毎日顔を合わせるということになります。

 嫌だ嫌だと思いながらでも、一年くらいを共に過ごしていれば、狭い教室の中のことです。嫌でも相手の心持ちは判ってきます。どうして、教師がああいう態度をとったのか、あるいは、自分が責められなければならなかったのかが、判ってくるのです。

 日本の社会は、それまで彼らが過ごしてきた社会とは、また違った難しさがあります。日本語学校であれば、(外国暮らしが長い教職員もいるでしょうから、自分の経験から)外国人だから仕方がないと許すこともあるでしょうが、一旦外へ出てしまうと、そういうわけには参りません。上の教育機関に進む場合、「出来ないからしかたがない。彼らの国では、日本の大学院が求めているような教育は受けられないのだからでは」済まされないのです。だれも、「だからあなたはできなくていい」と、大学乃至大学院に入れてくれないのです。

 それ故、進学を控えた時期になりますと、学校の中でも軋轢が生じてきます。自分の国では「何ほどかの者である」と信じ込んできた人は、専門分野における自分の現状(レベル)が認められないのです(勿論、これも人によります。レベルの高い大学を出、しかもその専門を学んできた人は、それを認めて来日していますから、こちらとしても指導しやすいのです)。これも、一旦、大学院に入ってしまえば、よほど愚かでない限り、すぐに判ることなのですが(他の人との差に愕然とするだけです)、入る前には、百万言一千万言尽くそうとも、判らないのです。

 教職員が質問しても、彼らは答えを持ちませんから、何も言えません、プライドが傷つくだけです。自分を傷つけずに、ノウハウだけを教えてくれる人の所へ行きます。楽ですから。自分を傷つけられてまで、相手を大切に思うなどということは、普通の人間には出来ないことでしょう。ところが、二年近くを共に過ごしてきた学生は、耐えられるのです。私が「どうして」「なぜ」を連発しても、我慢できるのです。そして、考えつづけてくれます。

 不思議なことですが、この期間(一年半ほど)は、本当に日本語を習得しただけではなかったのです。この期間があるからこそ、互いに、ある種の「同志」的な気分にもなり、互いに信頼関係も築けたのでしょう。この期間を共に過ごしてきたからこそ、私が「なぜそうするのか」、或いは「それをかんがえなければならないか」が納得できるようなのです。納得できないにしても、「この人がそう言うからには、きっと理由があるのだ。だから考えなければならない」と思えるようなのです。

 この一年半ほどの間に、私の為人、あるいは、私のやり方が判っているからこそ、最後まで(「入学願書」や「面接指導」をするときに)耐えられるのだと思います。

 「入学願書」を書かせる場合も、私は、学生に「なぜ」「どうして」を連発します(勿論、これは、レベルの高い大学や大学院を受験しようという学生だけです。まだそれほどのレベルがない学生は、耐えられませんから)。耐えられない学生は、ノウハウを教えてくれる教師か、「テニオハ」を直してくれる教師の方を求めます。別にそれが悪いと言っているわけではないのです。それでいい場合も少なくないのです。その方が考えなくてもいいし、それを考えることなしに進学できると思い込んでいる己に気づかずにすみますから。適当に表面を胡塗すればいいだけですから。

 何事をなすにしても、一度、自分の「心の芯」まで入っていって(人によってその深さに差はあります。けれども、その時に「降りていける深さ」までという意味で言っているのです。無理強いはしません)、自分の気持ちやそのレベルを確かめる必要があるのです。人は決して強くありません。しかも、誰にでも誇りがあります。人に認めてもらいたい、褒めてもらいたいという欲求もあります。そういう人はそういう育て方をしてくれる人を求めた方がいい。互いにその方がいいのです。その範囲でしか、人は伸びていけないものなのですから。

 人にとって、(特に専門分野において)相手が要求するほどのものが、自分の中には、まだ形成されていないのだということを認めるのは辛い。知っているふうを装いたいし、人にも自分が知らないということ知られたくない。また、言ってほしくはないのです。

「人生とは、人がそれを意志的に実践するのでなければ、少なくとも、その人の意志の程度にしか意味を持たないものだと私は考えている」

 ポール・ゴーギャンの言葉です。彼は偉大な画家でした。けれども、生前、人々に認められるところの少ない人でもありました。彼の文章を見るまでは、この人は「才」というデーモンに操られ、一生を支配された、弱い人であると思っていました。

 ところが、ある機会に彼の文章を読んでみると、弱いどころか、彼が、類い希な才に突き動かされながらも、同時に、それを冷静に分析し、確認することのできた人であることがわかりました。全く、これは得難い才能です。凡人たる我々はそうはいきません。「才」があれば、それに溺れ、「才」がなければ、天を恨んだり、他者を嫉んだりするかもしれません。

 普通、人は自分のことは見えません。己の才能もわかりません。「これをしたい」とか、「この方面に他の人よりも才能がありそうだ」とかを感じるくらいがせいぜいでしょう。

 デーモンを持って生まれてきている人は稀なのです。デーモンはきらびやかで美しい。けれども、毒を、その華やかさの裡に潜めているものです。こういうものに取り憑かれてしまったら、たいていの人は食い尽くされてしまうだけでしょう。こういう才能を持った人の悲劇は、「才」の大小こそ違え、古今東西見られ、今更例を挙げるまでもないことです。

 「己の裡から突き上げてくる力を強く感じ、それに翻弄されつつも、表さずにはいられなかった。それと同時に、翻弄されつつも、見つめ、問いかけることを忘れなかった」が故に、自分をも、また親しい人たちをもボロボロにしてしまうという「天才」達の苦しみ哀しみは、私たちのような凡人には判らないところです。

 けれども、このゴーギャンのように、言葉が残っていれば、彼らの心の裡を、心の流れようを多少は忖度もできます。彼らのすごさは、魔神に取り憑かれていない時には、驚くほどの明晰さで自己を見つめられる目を持っていることです。デーモンに支配されている時の「闇」が深ければ深いほど、目覚めている時には「光」を強く感じられてでもしているかのように、浮かび上がってくる「(彼の人の)己」が見えているのです。「末期の眼」を常に己のものとしてでもいるのでしょうか。

 人は自分の「意志」でしか歩けないものです。「本人の意志」がなければ、いくら手を添えても徒労に終わるだけです。その場を取り繕うための「便宜」にされてしまうだけです。本人のためにもならないことです。現状を認識できなければ、すべては始まらないのですから。

 ですから、私は、まず「入学願書」を書き始めようという学生には、(どんなに回り道に見えようとも)「なぜ」「どうして」を連発します(せざるをえないのです)。そして、自分の心の奥底に潜り、一度自分の心、あるいは気持ちを見つめてもらわなければならないのです。本当に欲しているのか、本当に欲しているのならば、どうして欲しているのか、それを考えさせるのです。これができると、あとは、その人の心の奥(深浅は人それぞれですが)から放射状に伸びてくる思いを綴らせればいいのです。極言すれば、それだけでいいのです。あとは、「それで」と、彼らの言葉が途切れないように問いかけつづけるだけでいいのです。自らの心を見、一度物語る術を身につけた学生は、まあ、あと一ヶ月くらいは、その高揚感が続くでしょうから、面接でも常に己の気持ちを見つめながら、面接官の問いに、自分の言葉で答えていけるようになるのです。

 ただ、その人の「芯」を捜し出すのは難しい。とても難しい作業なのです。相手に嫌がられることをやるわけですから。本人にそのつもりがなくとも、難度も固い岩盤に突き当たります(無意識のうちに抵抗するです。きっと「防御」なのでしょう)。その時はルートを変え、搦め手から攻めていったり、そのまま、岩を溶かしながら進んでいったりします。また、時には、爆発を仕掛けることもあります。相手によって、攻め方は異なります。ただ、これは勘なので、問いかけながら、やり方を変える場合も少なくありません。

 それが耐えられない学生には、指導はしません。学生も嫌だし、疲れることでしょうが、指導する方はその倍も何倍も神経をすり減らしているのです。「その人の意志が求めていないのであれば」する必要がないことなのです。こういう指導は。

日々是好日
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