日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『メジロ』と『ヒヨドリ』」。「『人を紹介する』ということ」。

2011-03-02 08:57:40 | 日本語の授業
 空は灰白色、煙と同じ色です。街もくすんで見えます。

 先日、小さな鉢植えの「ツバキ(椿)」を、ベランダに出して陽に当てていますと、どこからともなく「ヒヨドリ(鵯)」が飛んできました。この「ツバキ」というのは、小さく、しかもひょろひょろと背だけ伸びた、いわゆる「やせっぽちツバキ」で、花も二輪くらいしか、つけていません。それなのに、「ヒヨドリ」が飛んで来ようとは、全く思いがけないことでしたから、日頃の憎しみも忘れて、ちょっと嬉しくなってしまいました。

 この「ヒヨドリ」というのも、外で見ていますと、小さな小鳥たちを追い回すギャングでしかないのですが、こういう植木に止まっている姿を見ていますと、(ツバキの)枝とも言えぬ、細っこい茎が少々撓むくらいの重さでしかないのです。海鳥は別として、近在を棲み処としている鳥の中では、「カラス(烏)」の次か、その次くらいの大きさで、小鳥たちを威嚇していた、このギャング鳥でさえ、この程度の重さであることに気がついて、憎しみを抱いていたことに対して、済まぬような気さえしてきました。

 ふるさとの県鳥は、「メジロ(目白)」で、庭にミカンなどを置いておきますと(えさの乏しくなる冬だけです)、すぐにやってきて、その可憐な姿を見せてくれたものです。この「メジロ」というのは、常に群れでいますから、1羽が来ますとすぐに20羽、30羽の大集団になるのです。そしてそうなった時に、嫌がらせを始めるのが、このギャング鳥なのです。

 「メジロ」が集まったなと見て取るや否や、空を切るように飛んできて、小さな「メジロ」たちを追い回します。「メジロ」は、このギャングの三分の一か、それよりももっと小さいでしょう、たまったものではありません。たちまち平和な群れは総崩れになって、大混乱が起きてしまいます。植木の陰に隠れるもの、慌てふためいて転んでしまうもの(鳥が転ぶというのをこの時初めて見ました)、集団は崩れに崩れて、大慌てで、四方八方に逃げ回ります。これを何度も繰り返すのです。

 それで、我が家では、庭木の茂みの中とか、「ヒヨドリ」が入れないようなところにミカンを刺して入れておくようにしておくようになったのですが、そうなりますと、やはり少し寂しいですね。あの、黒目の周りだけが白い、若草色のきれいな小鳥が、ミカンを吸っている姿ほど「平和」を象徴しているものはないような気がしていたのですが。しかも、こうなりますと、もう「鳥のおとない」という感じではなくなり、ペットとえさを与える人間との関係のようで、野鳥を見て心和む(それも欺瞞でしょうが)というものではなくなります(実は当時、我が家には病人がいて、この「メジロ」の訪れを楽しみにしていたのです)。

 まあ、そういういきさつがありましたから、(「ヒヨドリ」に罪がないことは判っていても)憎しみを持ってしまっていたのです。 もちろん、「カラス」などと比べますれば、たとえ縄張りを主張して、騒いでいようとも、ずっとマシなのですが。

 さて、学校です。
 この学校は小さく、学生の何割かは、卒業生や在校生が自分の友人やら親戚やらを紹介して連れてきたという人達なのですが、ただ、時には、学生が、アルバイト先の知り合いの同国人から頼まれたとか、友達でも、また、よく知っている知り合いでも、ましてや親戚でもないという人を連れてくることがあります。

 日本語学校というのは、ある意味で「薄氷を踏まざるをえない」ようなところがあり、商売人が創っている学校ならいざ知らず、そうではない人間が創っている学校であってみれば、勉強したいという人に来てもらい、自分達のできることをしたいというだけでしょう。

 実際、教員の質(これには経験だけではなく、素質も含みます)を見ることの出来ない人が、経営しているか、あるいは中心になっているのであれば、当然のことながら、そういう人に教えてもらわざるをえない学生が不利益を被りますし、それと同じように、勉強する気のない人、あるいは勉強した経験のない人が来て、そして、その間に入っている人が日本の理屈が判らない人であり、悶着を起こせば、学校のみならず、在校生も不利益を被ります。

 実際、この学校は小さいにもかかわらず、常に十数カ国から来た人達が学んでいるのですが、留学生として、私たちが二年なり1年半なりを責任を持つとなりますと大変です。その学生達が来ている大部分の国というのは、私たちが行ったこともない国でありますし、彼らの国の言葉もわかりません。

 というわけで、(友人なり親戚なりを)呼びたいというならば、その人が日本語がある程度できていることも必要ですし、日本の事情もわかっており、学生が母国と同じような行動を取り、しかもそれが日本人にはどうしても馴染めないものであった場合に、それを説明できるだけの能力を持っていてもらわねば困るのです。

 学生の中には、簡単に知り合いだからとか友達だからと言って連れてくる場合があるのですが、「その人のことをよく知っているのか」と聞くと、そうでもなかったりするのです。

 以前、インド人の学生が、(私たちによかれと思って言ったのでしょうが)「学生を紹介したい。これこれの人だ。会ってくれ」と言ってきたことがありました。その人を知っているのかと聞くと友達の友達程度の関係なのです。「その人がもし来たとして、何かしたら、私はあなたに電話するよ」と言うと、びっくりして「私とは関係ない」と言うのです。

 「人を紹介するということは、そういうことなのだ。責任は当然出てくる。」こういうことも、少しずつ学生達に判らせておかなければなりません。日本では、「友達を見ればその人が判る」と言います。つまり、その人が紹介した人を見れば、その人のレベルが判るのです。

 数度会っただけで(その人の何も判っていないのに)、すぐに「友達だ」と触れ歩き、人に「私の友達だ」と紹介するような習慣だけは、日本では慎まなければならないと思います。

日々是好日
コメント
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