今朝は薄曇りです。
11日の金曜日に大地震があり、土曜日と日曜日は休みでしたから、昨日の月曜日は、地震後初めて学生達と顔を合わせるということになりました。それで、登校してきた学生達に、地震の経過、様子やら、これからの注意などをしました。その間も、卒業生がやってきて、ビザの更新手続きやら、市民税・県民税申告書を書いたりしましたから、なかなかのんびりはできません。
地下鉄もいつもより本数が少なくなっていましたし、不通になっているところもあります。アルバイトに不便を来すであろう事は想像できます。それでその面での注意などもしました。
その合間に、学生達はいろいろなことを話します。やってきた卒業生達が口々に語っていたのが「先生。あの日、卒業式でよかった。みんなと一緒だったから、怖くなかった」ということでした。「一人で部屋で震えていた」とメールしてくる友人もいたそうなのです。
あの地震があった時、卒業生達は、ちょうど(卒業)式が終わって、パーティ(これは在校生達が準備していたのですが)の呼び出しがかかるのを待っていたのです。花を活けた大きな花瓶を前に写真を撮ったり、友達同士、また教員と共に写真を撮ったりと、大忙しの頃でした。
三階の在校生達は、それどころではなかったようで、せっかくきれいに並べたお菓子がばらばらになったり、ペットボトルが落ちたりして、茫然自失、しゃがみ込むのがやっとという有様(これは三階にいた教員に聞いた話です)。一階にいた卒業生達とは大違いです。卒業生達は、ベランダから向かいの自動車が大きく揺れるのを見て、「先生、これはかなり揺れている。大きいね」などというゆとりもありました。
これもそれも、皆が一緒にいたからという以外に、彼らが既に二年を日本で過ごし、地震は怖いけれども、だからといって、それによって暴動が起こるとか、泥棒がうろつき廻ったりするとかいう、危険が日本ではあまり考えられないことが、肌で感じられて分かっているからなのだと思います。
戦前ならいざ知らず、今では日本中、どこでも外国の人の姿を見かけます。しかも旅行者としてではなく、生活者としての姿です。外国人は決して珍しくないのです。既に日本の一部としての存在すらあるのです(ですから、日本人が危ないと思った所は外国人にとっても危ない所ですし、日本人が大丈夫だと思っている時は外国人にとっても大丈夫な時なのです)。
月曜日は、地震発生後、最初の「仕事の日」でした。まだ余震は続いていますし、(地下鉄やバスなどの)ダイヤは乱れています(安全点検やら電気の供給量不足などの問題があったのでしょう)。けれども、いつもなら八時に出勤していた人は、1時間前の七時に家を出、七時に出ていた人は六時に出るなどして、多少交通機関が乱れていても対処できるように備えています。
地震が発生した金曜日は、突然のことで、帰宅の足が確保できずに、歩いて帰ったり、あるいは車の迎えを頼んだり、またタクシーを使ったりと、ここ行徳でも道は渋滞のままでした。普段なら30分ほどで着くところが何時間もかかったという話も聞きました。みんな、とにかく家へ戻るために必死だったようですが、月曜日は、それほどの混乱もなく、出勤できたように見受けられました。休みにした会社もあったのかもしれません。
こういう時は我慢しなければしようがないということが、日本人には、既に遺伝子の一つの情報として組み込まれているような気さえしてきます。
ただ外国の人に、それを要求するのは、多少酷なのです。日本に馴染んでいないわけですから。それに、こんな地震はもしかしたら100年に一度、200年に一度というものかもしれませんし。
日本人の行動パターンが分かっていればともかく、来日後それほど日にちの経っていない人や、たとえ何年いようとも自分達の国の人達だけでぐるぐる回っている人達は、どうしても自国での行動様式や感覚で事をしてのけようとしますから、様々な問題が生じてしまいます。
まず、地震や津波が発生した場合、今はもう大丈夫だということは誰にも言えません。せいぜい、そのとき以後の確率くらいです。ただそれを知って安心したりすることもできません。みな、「だから、どうするか」と考えながら動くだけです。
湯船を水で一杯にしておく。飲み水を確保する。電気が来なくても食べられるものを用意しておく。懐中電灯を出しておく。まだこのほかにもありますが、それは幼稚園や小学校のころから(地震などの)避難訓練をしてきた日本人にして、あるいは先進国で日本と同じように地震大国である国にして初めて、準備できていることなのかもしれません。
地震などの天災があった時に、デマというのは、必ず出てきます。それが憂心から出たものであっても、愉快犯が出したものであっても、根拠のないものであれば、人々を迷わすもの以外の何物でもないのです。とはいえ、そこに政府なり、専門家の警告なり、信頼できる機関なりからの情報が適切に出されていれば、そういうものに踊らされる人もすくなくなるでしょう。
昨日登校した学生達にはこういうことを言いました。
1.地震についての説明。被害状況など。そして今でもまだ発見されていない人達が大勢いることなども伝えました。それから、この近辺の状況。
2.計画停電のこと。五つのグループに分けられ、順次停電を最長三時間ほど行うということ。もし実施された場合、飲み水と生活用水の2種類を準備しておくようにということです。それから、本当に水が出なかったら、近くの小学校へ行くようにとも伝えました。
3.月曜日(昨日です)と火曜日は休校。これは電気が三時間でも止まれば、暖房も使えません。CDやテープも使えません。
4.まさかの時に備えて、保存食を買っておくこと。御飯も炊く時は多めに炊くように。
5.懐中電灯の準備。もう売り切れになっていましたが、また入荷されるでしょう。そのときには買っておくように。ろうそくは危険ですからできるだけ使わないように。
最後に、顔を見ないと心配だから、用事がなければ、一日に一回は学校に来て、元気な顔を見せてくれること。
それから何か困ったことがあった場合、すぐ学校に連絡するようにとも言っておきました。
そして、そんな話をしているうちに、寮生の一人が「先生、御飯を食べていません」。
一瞬、驚いたのですが、ガスが来ていないというのです。ガスの供給は足りているはずですし、このあたりで、ガスが止まったという話も聞いていません。よくよく聞いてみると、「地震の後、家に戻ってからずっとだ」と言うのです。すぐに「ハハ~ン。これは安全のために自動でガスがストップしたままなのだ」と分かりました。
それで、彼らが帰る時に一緒に行って、管理人さんにガスのスイッチを入れてもらいました。そのとき、寮にいた全員(6名です)が出てきて、「入って、入って」と言うのです。
実は、私が寮生の一人と寮のあるマンションに行った時、彼女が「先生が来たよ。大急ぎで片付けて」とノックしながら言ったのです。「おい、おい」と思いましたが、皆がさごそと大慌てで片付けているのが感じられました。
そこへ、管理人さんがやってきました。そして、「元栓をしめて」と言います。それで「ガスの元栓を切る」ように私が一人に伝えますと、その一人がドアの所にいる一人にそう伝え、また廊下にいる一人がそれを反復し、最後に台所にいる一人が切ります。「切りました」とその学生が答えると、その答えがちょうど反対にこちらに伝わってきます。三分待ってからガスを入れる」と管理人さんが言いましたので、またそれを同じルートをたどって伝えていきます。で、無事に完了。なんと言うこともないのです。
これは安全弁で、地震が起こったりした場合、自動でガスが切れるようにできているのです。
それが無事に終わってから、彼らの部屋に行って様子を見ながら、話を聞きました。みんなあの日一緒でよかったと言います。それは本当にそうですね。自分でもそうだろうと思います。
こういうことは、自国の人間に相談してもどうにもならないのです。その土地の人間がやはり一番頼りになります。言葉ができないのならいざ知らず、彼らは日本語を学んでいますし、実際にかなり話せるようになっていますから、それほど困るはずはないのです。
あとはこの「怖い」という思いです。これも黙って胸の内に秘めていれば、どんどん増殖していきます。誰かに話せば少しは気も紛れますし。なんといっても、あれだけ揺れた関東地方でも、日本人はその翌日でも平常どおり会社へまた学校へと通っているのですから。
もちろん、これも学校で書いていますし、その横にはビザの申請をしている卒業生がいます。
日々是好日
11日の金曜日に大地震があり、土曜日と日曜日は休みでしたから、昨日の月曜日は、地震後初めて学生達と顔を合わせるということになりました。それで、登校してきた学生達に、地震の経過、様子やら、これからの注意などをしました。その間も、卒業生がやってきて、ビザの更新手続きやら、市民税・県民税申告書を書いたりしましたから、なかなかのんびりはできません。
地下鉄もいつもより本数が少なくなっていましたし、不通になっているところもあります。アルバイトに不便を来すであろう事は想像できます。それでその面での注意などもしました。
その合間に、学生達はいろいろなことを話します。やってきた卒業生達が口々に語っていたのが「先生。あの日、卒業式でよかった。みんなと一緒だったから、怖くなかった」ということでした。「一人で部屋で震えていた」とメールしてくる友人もいたそうなのです。
あの地震があった時、卒業生達は、ちょうど(卒業)式が終わって、パーティ(これは在校生達が準備していたのですが)の呼び出しがかかるのを待っていたのです。花を活けた大きな花瓶を前に写真を撮ったり、友達同士、また教員と共に写真を撮ったりと、大忙しの頃でした。
三階の在校生達は、それどころではなかったようで、せっかくきれいに並べたお菓子がばらばらになったり、ペットボトルが落ちたりして、茫然自失、しゃがみ込むのがやっとという有様(これは三階にいた教員に聞いた話です)。一階にいた卒業生達とは大違いです。卒業生達は、ベランダから向かいの自動車が大きく揺れるのを見て、「先生、これはかなり揺れている。大きいね」などというゆとりもありました。
これもそれも、皆が一緒にいたからという以外に、彼らが既に二年を日本で過ごし、地震は怖いけれども、だからといって、それによって暴動が起こるとか、泥棒がうろつき廻ったりするとかいう、危険が日本ではあまり考えられないことが、肌で感じられて分かっているからなのだと思います。
戦前ならいざ知らず、今では日本中、どこでも外国の人の姿を見かけます。しかも旅行者としてではなく、生活者としての姿です。外国人は決して珍しくないのです。既に日本の一部としての存在すらあるのです(ですから、日本人が危ないと思った所は外国人にとっても危ない所ですし、日本人が大丈夫だと思っている時は外国人にとっても大丈夫な時なのです)。
月曜日は、地震発生後、最初の「仕事の日」でした。まだ余震は続いていますし、(地下鉄やバスなどの)ダイヤは乱れています(安全点検やら電気の供給量不足などの問題があったのでしょう)。けれども、いつもなら八時に出勤していた人は、1時間前の七時に家を出、七時に出ていた人は六時に出るなどして、多少交通機関が乱れていても対処できるように備えています。
地震が発生した金曜日は、突然のことで、帰宅の足が確保できずに、歩いて帰ったり、あるいは車の迎えを頼んだり、またタクシーを使ったりと、ここ行徳でも道は渋滞のままでした。普段なら30分ほどで着くところが何時間もかかったという話も聞きました。みんな、とにかく家へ戻るために必死だったようですが、月曜日は、それほどの混乱もなく、出勤できたように見受けられました。休みにした会社もあったのかもしれません。
こういう時は我慢しなければしようがないということが、日本人には、既に遺伝子の一つの情報として組み込まれているような気さえしてきます。
ただ外国の人に、それを要求するのは、多少酷なのです。日本に馴染んでいないわけですから。それに、こんな地震はもしかしたら100年に一度、200年に一度というものかもしれませんし。
日本人の行動パターンが分かっていればともかく、来日後それほど日にちの経っていない人や、たとえ何年いようとも自分達の国の人達だけでぐるぐる回っている人達は、どうしても自国での行動様式や感覚で事をしてのけようとしますから、様々な問題が生じてしまいます。
まず、地震や津波が発生した場合、今はもう大丈夫だということは誰にも言えません。せいぜい、そのとき以後の確率くらいです。ただそれを知って安心したりすることもできません。みな、「だから、どうするか」と考えながら動くだけです。
湯船を水で一杯にしておく。飲み水を確保する。電気が来なくても食べられるものを用意しておく。懐中電灯を出しておく。まだこのほかにもありますが、それは幼稚園や小学校のころから(地震などの)避難訓練をしてきた日本人にして、あるいは先進国で日本と同じように地震大国である国にして初めて、準備できていることなのかもしれません。
地震などの天災があった時に、デマというのは、必ず出てきます。それが憂心から出たものであっても、愉快犯が出したものであっても、根拠のないものであれば、人々を迷わすもの以外の何物でもないのです。とはいえ、そこに政府なり、専門家の警告なり、信頼できる機関なりからの情報が適切に出されていれば、そういうものに踊らされる人もすくなくなるでしょう。
昨日登校した学生達にはこういうことを言いました。
1.地震についての説明。被害状況など。そして今でもまだ発見されていない人達が大勢いることなども伝えました。それから、この近辺の状況。
2.計画停電のこと。五つのグループに分けられ、順次停電を最長三時間ほど行うということ。もし実施された場合、飲み水と生活用水の2種類を準備しておくようにということです。それから、本当に水が出なかったら、近くの小学校へ行くようにとも伝えました。
3.月曜日(昨日です)と火曜日は休校。これは電気が三時間でも止まれば、暖房も使えません。CDやテープも使えません。
4.まさかの時に備えて、保存食を買っておくこと。御飯も炊く時は多めに炊くように。
5.懐中電灯の準備。もう売り切れになっていましたが、また入荷されるでしょう。そのときには買っておくように。ろうそくは危険ですからできるだけ使わないように。
最後に、顔を見ないと心配だから、用事がなければ、一日に一回は学校に来て、元気な顔を見せてくれること。
それから何か困ったことがあった場合、すぐ学校に連絡するようにとも言っておきました。
そして、そんな話をしているうちに、寮生の一人が「先生、御飯を食べていません」。
一瞬、驚いたのですが、ガスが来ていないというのです。ガスの供給は足りているはずですし、このあたりで、ガスが止まったという話も聞いていません。よくよく聞いてみると、「地震の後、家に戻ってからずっとだ」と言うのです。すぐに「ハハ~ン。これは安全のために自動でガスがストップしたままなのだ」と分かりました。
それで、彼らが帰る時に一緒に行って、管理人さんにガスのスイッチを入れてもらいました。そのとき、寮にいた全員(6名です)が出てきて、「入って、入って」と言うのです。
実は、私が寮生の一人と寮のあるマンションに行った時、彼女が「先生が来たよ。大急ぎで片付けて」とノックしながら言ったのです。「おい、おい」と思いましたが、皆がさごそと大慌てで片付けているのが感じられました。
そこへ、管理人さんがやってきました。そして、「元栓をしめて」と言います。それで「ガスの元栓を切る」ように私が一人に伝えますと、その一人がドアの所にいる一人にそう伝え、また廊下にいる一人がそれを反復し、最後に台所にいる一人が切ります。「切りました」とその学生が答えると、その答えがちょうど反対にこちらに伝わってきます。三分待ってからガスを入れる」と管理人さんが言いましたので、またそれを同じルートをたどって伝えていきます。で、無事に完了。なんと言うこともないのです。
これは安全弁で、地震が起こったりした場合、自動でガスが切れるようにできているのです。
それが無事に終わってから、彼らの部屋に行って様子を見ながら、話を聞きました。みんなあの日一緒でよかったと言います。それは本当にそうですね。自分でもそうだろうと思います。
こういうことは、自国の人間に相談してもどうにもならないのです。その土地の人間がやはり一番頼りになります。言葉ができないのならいざ知らず、彼らは日本語を学んでいますし、実際にかなり話せるようになっていますから、それほど困るはずはないのです。
あとはこの「怖い」という思いです。これも黙って胸の内に秘めていれば、どんどん増殖していきます。誰かに話せば少しは気も紛れますし。なんといっても、あれだけ揺れた関東地方でも、日本人はその翌日でも平常どおり会社へまた学校へと通っているのですから。
もちろん、これも学校で書いていますし、その横にはビザの申請をしている卒業生がいます。
日々是好日