日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「生まれ変わるとしたら」。「共に生きるということは」。

2011-03-01 08:44:54 | 日本語の授業
 昨日は、昼過ぎ頃から、氷雨が降り始めました。ほんの一瞬、雪に変わった時もあったそうですから、相当寒かったのでしょう。午後の授業が終わってから帰る時、玄関で、ロシア人学生が、「日本は寒い」と言っていましたから。「ロシアの方が寒いでしょう」と聞くと、「(ロシアは)家の中は暖かい」。まあ、それはそうでしょうけれども。

 一軒家というのは、日本でもマンションなどと比べると、ぐっと寒さは増して感じられます。(日本特有の)底冷えのする、寒さ故なのでしょう。だいたい、日本は島全体が水分が多いのです。

 今朝、それでも雨は一時的に止み、傘を差さずに学校に来ることができました。途中、春の草花は咲いていないかしらんと、キョロキョロと道端を見ながらやってきましたから、これはどう見ても怪しいどころか、胡散臭いおばさんです。それでも、まだきれいな水仙)が咲きかけているのを見てしまいますと、春にならなくてもいいのじゃないかなどと思ってしまいます。そうしているうちに、「ジンチョウゲ(沈丁花)」が七分ほども咲いているお宅を見つけました。途端に、トントントン、春の軽やかな足音が聞こえてきました。人間というものは、本当に都合よくできています。

 さて、日本人は、普通、「生まれ変わるなら、何がいい」と聞いたりします。これは小学校の頃からそうで、友達との話でも、こういうことが話題になったり、作文にも書いたりした覚えがあります。けれども、考えてみまするに、これは甚だ宗教的な話題で、輪廻思想がないところでは、問題にされてしまうのではないかと思わないこともないのです。

 ただ、それだけ、日本人の間で、宗教と習慣、つまり日常生活における形式というだけではなく、日常の思考回路に、そういうことが嵌め込まれているのです。そして、それを誰も宗教故になどとは思っていないのです。

 ある国では、他国から来る人に必ず書かせるという事の一つに、宗教があります。こういう宗教欄などを見てしまいますと、私のようなちゃらんぽらんの日本人は戸惑ってしまいます。

 「はてさて、どうしよう。一体全体、宗教と言えるほどのものが己の中にあるのかしらん。ないと言えば哲学的になり、却って衒っているようで、まずいし…」。結局、書けないのです。つまり、自分の中をざっと見渡してみても、その国の人達が認識しているところの宗教という範疇に入らないものしかないのです。日本人だから神道かというとそうでもなく、だいたい、神道というのは、いい加減なようで決していい加減なものではありません。ですから、自分にとっての「神」がいなければ、やはり書けないのです。

 腹を据えて考えたことなどないわけですから、それに書き込むべき宗教は見つからず、書かないでおくと、あちらでは本当に怪訝そうな目で私を見ます。その目は、「あるならその名を、ないなら無宗教であると書け」とでも言っているのでしょうが、どちらでもないので、やはり書けないのです。

 私なんぞから見ますと、どっちでもいいじゃないか、またどっちでなくてもいいじゃないかと言いたいところなのですが、彼らの頭の中には、「そんな考え方をするのは、『原人』で終わり」という偏見があるようで、そう感じられるだけに、却って、私の方では、固まってしまったりするのです。

 日本人は、子供の時など、お地蔵さんのそばを通りかかれば、「守ってくれるからね」という親の声に合わせ、合掌したりしますが、そう言った親とても、信じているかというと、そういうものでもなく、その子にしても、ある程度年が長けてくれば、そんなことはないと思うようになるのでしょう。けれども、習慣で手は合わせてしまいます。

 私も、それを、以前中国にいる時に、イスラム圏の人に非難され、自分の中で考えたこともありました。しかしながら、こういう身についた習慣というものは、当事者にとって、却って理由の判らないもので、彼らに納得のいくような説明は、いくら考えても頭に浮かびませんでした。

 それに、こういうことは考えようとしても、考えられるものでもないのです。考えようとすればするほど、「あの時はこうした、ああした」という思い出めいたものがとりとめもなく流れていき、却って考えることを邪魔します。また、そういうことをいくら説明したとしても、彼らが決して納得してくれるとは思えないのです。

 それで、「日本人は、古来からそういうことを行ってきた。行ってきたにはそれなりの謂われがあるだろう。それに、そう思いたい人がいて、続いてきたことなのだと思う。それを切ることはたやすいが、切らずに続けていくことの方が大切だと思う」などと答えた覚えがあります。

 伝統というのは、多分、そういうものなのでしょう。いつの間にか、その由来も意味も忘れられているにもかかわらず、同族であったり、その地に住んでいるという理由で、何となく切られずに続けられているにすぎぬのだと思うのです。

 今の日本人に宗教を聞けば、まず大半の者が「ない。けれども、なにかを信じているような気がする。少なくとも信じたい」と答えることでしょう。私はそれでいいと思うのです。そういう日本人を非難する資格は誰にもないと思いますし、そういう日本人を非難する人々こそ、そういう宗教の名を以て、他宗教の人を殺そうとし、その人々の平安を奪おうとしているわけですから、そんな宗教ならない方がいいのです。

 私はこのような日本人の心持ちが好きです。「友達が信じている宗教なら、大切にしてやろう。友達が手を合わせているのなら、それを愚かといわずに共に手を合わせよう」。信じる信じないではないのです。共に生きるというのは、難しい理屈を要するものなどではなく、却って、こういう単純なことなのではないでしょうか。

日々是好日
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