イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「絶対に面白い化学入門  世界史は化学でできている」読了

2022年05月09日 | 2022読書
左巻健男 「絶対に面白い化学入門  世界史は化学でできている」読了

「世界史は化学でできている」というタイトルだが、普段はそんなことを考えることはないのだが、なるほどその通りだと思う。人はモノの中で暮らしていると言っても過言ではない。そして当然ながらそれらは物質でできている。そしてそれらは自然界に存在する資源に化学変化をおこさせて純粋なものにしたり新たな機能なり特性なりを加えて作りされているものだ。世界史ができる前に生活そのものが化学でできている。
また、大きな歴史の転換点にはそういったモノが関わってきたというのも確かなことだ。新たな素材や、薬、兵器、そういったものの登場で歴史のパラダイムが変わってしまうのである。
この本に取り上げられている話題はおそらく高校生が習う化学くらいのレベルのものであるが、それを歴史に変化を与えたものという視点で並べられているというのが新鮮である。

化学というのは、特に物質の「性質」と「構造」と「化学反応」の三つを研究している学問だそうだ。こういった定義を高校時代にしっかり教えてもらいたかった。こういう定義はすべての学科にあるはずなのだが、そういった元の元について先生が教えてくれたという記憶がない。もっとも、きっちり教えてもらっていても右から左へ流れてしまっていたのかもしれないが・・。哲学についても、「存在」を論じているのだということを知るといままでわけのわからなかったものがなんだか、ここを見ればいいのだということがすこしずつわかってきた。学校で勉強するものもそういった指針をしっかり教えるべきではないのだろうかと思うのである。

化学と人間の関りの始まりは「火」を使うことからであると著者は考えている。『火は「燃焼」という化学反応にともなう激しい現象である。原始の人類は、山火事などに、他の動物と同様に「おそれ」を抱いて近づくことはなかったのだろう。しかし、私たちの祖先は「おそれ」を乗り越えた・・。』と冒頭に書いている。
その後、哲学者たちが物質とは何か、そしてそれを形作っているものはなにかという元素の概念を作り出した。
それと同時に、経験的には酸化した鉱石を還元することで純粋な金属を作り出すことができることを知り、石器から青銅の時代が始まり、さらに鉄の時代へと発展する。それぞれは大きな時代の転換点になっている。
そういった見方をしてゆくと、ひとつは、武器として何が使われたかということで歴史が変わっていく姿を見ることができるのではないかと思う。もうひとつは医薬品の進歩がもたらした歴史の変化だ。人を殺すことと人を生かすことという両極端なものであるが、このふたつが大きく歴史を作ってきたといえないだろうか。

様々な科学の発見から武器はどんどん進化してきた。化学が作り出した最初の武器は青銅製の武器だろう。それから鉄の武器。さらに火薬が生まれ、毒ガス、原子爆弾と殺傷力がどんどん強まり、最新の武器を手にしたものが歴史を作ってきたといっても過言ではないのではないか。

医薬品はどうだろう。薬というのは最初は植物の葉っぱや根などをそのまま使うものだったが、その中の成分を抽出する方法を見つけ、さらにその成分を人工的に合成できるようになったことで多くの人たちの寿命が延びた。これも大きな歴史の転換であっただろう。また、公衆衛生の面では消毒薬や殺菌剤などの開発が感染症を防ぎ、同じ技術は食料の増産にも貢献していく。これは知らなかったことだが、医薬品メーカーの源流というのは染料メーカーだったそうだ。ある種の染料は特定の細胞を染めるということが分かってくると、その性質を利用して薬効成分を特定の細胞に作用させるということが考え出されてきたそうだ。今でも残っているバイエルンという製薬会社ももとは染料メーカーであったそうだ。
近代の日本文学でもよく出てくる、アスピリンという鎮痛剤を開発したのはこの会社なのである。
医薬品は光だけでなく陰も作り出す。様々な麻薬はいちおう医薬品だが、世界の裏側で戦争を引き起こすきっかけやその資金源になってきたし、消毒薬や殺菌剤は人々に多大な副作用をもたらしたというのも歴史のひとつだろう。

著者はこれからの世界は環境をどう維持、改善してゆくかということ考えねばならないと書いている。冷媒に使われていたフロンはオゾン層を破壊するが代替物として開発されているものはオゾン層を破壊しなくても強力な温室効果をもたらすそうだ。廃棄されたプラスチックは紫外線などの影響でマイクロプラスチック化し生物に悪影響を及ぼす。自然分解するプラスチックはまだ、価格の問題や耐久性の問題を抱えている。
それらを解決してゆくのが未来の化学者の使命であると言っている。僕が大学に入る頃、化学というのはほぼすべて解明しつくされてしまった分野だから面白くないなどと言われていたが、そんなことはまったくないようである。これから先も解決しなければならない課題はたくさん残っているらしい。

話は最初に戻るが、人類は火を使うことから化学をはじめた。様々な害を引き起こしながらも豊かで便利になったけれども、核兵器という世界を滅ぼすことができる火を持ってしまったということは火を使うことを知ったものはその火によってその終末を迎えるのだと暗示しているようにも思えるのである。


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紀ノ川河口~水軒沖釣行

2022年05月07日 | 2022釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖
条件:小潮 8:15満潮
釣果:セイゴ1匹 エソ1匹

今日はやっと小船を動かせる。4月12日以来の乗船だからほぼ4週間ぶりということになる。2週間に1回はエンジンを回しなさいというのがエンジンの面倒を見てくれているおにいちゃんの忠告なのでその倍の期間、放置してしまっていたことになる。
セルモーターのスイッチを入れるとき、はたしてエンジンは回るのか、いつもこのひと時に緊張が走る。
と、いいながら、日本の機械工業のレベルは僕が思っているよりもはるかに高く、今日も一発で始動してくれた。(バッテリーは韓国製の安物だが・・)

前回もそうだったが、今回もとりあえずはエンジンの性能維持が目的であって、釣果は二の次だ。それに加えて、今日は前回見逃した土星の姿を見ることができればそれでいい。うまくいけば、4個の惑星が一列に並んだ姿を見ることができる。それに加えて、みずがめ座η流星群というのがピークになるらしく、運がよければ流星も見ることができる。その姿を捉えるべく、今日は高性能なほうのカメラもカバンに入れ、ただの魚釣りにもかかわらず、カメラ2台態勢という重装備で家を出たのである。

防波堤沿いを走りながら東の空を眺めてみると、今日も金星がはっきり見える。東の空が開けている場所にバイクを停め、じっくりと観察すると、東から南東の空にかけて明るい星が4個直線状に並んでいる。これらが金星、木星、火星、土星に違いない。カメラの液晶モニターには火星と土星は映らないので適当に位置を決めてシャッターを押した。家に帰って画像処理をすると4個の惑星がはっきり映っていた。残念ながら流星は映っていなかったが・・。



ホームページで惑星の位置を確かめてみるとこんな感じだ。確かにこの並びで見えそうな位置に並んでいる。しかし、世の中便利になったものだ。素人でも惑星の現在位置を知ることができるとは・・。



と、いうことで、今日はここまでで僕のミッションは終了したも同然だ。
おまけの釣りのほうはというと、この季節、近場では何も釣れそうにないので紀ノ川河口でルアーを投げてみてさっさと家に帰ろうと考えていた。
今年に入ってからここはいいのじゃないかと思っているポイントに碇を入れてキャスティングを始めた。



あまり釣れる気もしないのでやる気なく投げていたのだが、突然アタリが出た。大物ではないがゴミを引っ掛けたのでもなさそうな感じだ。とにかく姿を見なければと慎重に魚をひきよせタモに入れる。30センチを少し超えたくらいのセイゴだが、このくらいのサイズでも塩焼きにしたら美味しいのがスズキだ。ありがたく持って帰ることにした。

ちょっと気分がよくなったので今度はメジロを狙ってやろうと新々波止に向かった。



テトラからのキャスターがいない場所に碇を下してメタルジグをキャスト。
何度かキャストしたのち、アタリがあった。これもまったくアタリがあることなど期待もしていなかったので驚きだ。
かなり小さな魚らしくまったく引きもしないので何かと思ったらエソであった。



たかがエソだが、メタルジグで魚を釣ったというのは初めての体験だ。それも、このメタルジグは100均で売っていたものだ。
しかし、世の中便利になったものだ。素人が110円を出せば魚が釣れるとは・・。
これもハンペンにできるのでありがたく持って帰ることにした。

さらに欲が出て、今度はアコウを狙ってやろうとザリガニの形をしたプラスチックワームに変更して底の方を探ってみた。まあ、そこまで海は優しくはなく、根掛かりでリーダーごとロストしてしまったので今日はここまで。

家に帰り着いたのはまだ午前7時半。BSの「ちむどんどん」を観ることができる時間だがそれを我慢して魚を捌いて道具を洗い、ついでに車も洗った。
2回の山菜採りで車は汚れたままだ。少し暖かくなってくると虫がたくさんヘッドライト目掛けて飛んでくる。それがフロントグリルにぶつかって潰れた状態でこびりついてしまうのだ。これはボディコートの被膜には大敵らしいので早くきれいにしなければと思いつつ放ったままになっていた。
今日は新しく買ったコーティング剤を使ってきれいにしてあげた。奥さんと共有している車なので虫なんかがこびりついたままでいるとすごく機嫌が悪いのだ。しかし、自分では一切洗車などしようとしないのに片や車が汚れていると、特に僕の趣味で乗っていたときに付く汚れに対しては特に怒りを発するのには納得がいかないのである。

それを終えてから図書館へ。本を選んでいると今日もきっちり便意をもよおす。出港時刻が早くなるほど、朝、きちっと出なくなるのでこの性癖はありがたい。ほぼ100%の確率で大きい方が出てくるのであるから。世の中に図書館が存在する限り僕の辞書には便秘という言葉はないのである。



ぼくはずっと、こういうことは自分の身だけに起こっているものだと思っていたのだが、かなり前になるけれども、同じような体験をするとウッチャンがテレビで言っていた。そのときに、僕だけじゃないんだとホッとしたのだが、改めて調べてみると、これは「青木まりこ現象」と呼ばれているそうだ。しかし、世の中便利になったものだ。ネットではこんな悩みも簡単に共有できてしまう。(僕にとっては悩みではなく恩恵なのではあるが・・)
ただ、この現象については原因が解明されておらず、当然ながら治療法も確立はされていないらしい。確かにこんな症状、死に至るほどのことでもあるまいし、誰も真剣に研究はしないだろう。
そして、青木まりこ現象の既往がある者は「書便派(しょべんは)」と呼ばれているそうだ。一般に文筆家や出版関係者では罹患者が多いことが知られているらしく、一応、僕にもその素養があるのかもしれないと思うと、ちょっと嬉しくもなったりするのである。

こういった一連の話題が人々の中に広がったというのは「本の雑誌」が一役買っていたそうだ。さすが椎名誠、面白いところに目をつけたものだ。

今日もしょぼい釣果で終わってしまったので大半が魚釣りにはまったく関係のない内容になってしまった・・。

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加太沖釣行

2022年05月04日 | 2022釣り
場所:加太沖
条件:中潮 7:15満潮
潮流:6:16転流 8:10上り0.5ノット最強 10:24転流
釣果:ボウズ

またまた気がつけば2週間以上船に乗っていない。小船にいたっては3週間になろうとしている。本来なら先に小船に乗ってやらないといけないのだろうが、今日はあまりにも天気が良いので大きい方で出ることにした。

夜明けはどんどん早くなっている。出勤する日も起床時間は早くて土日祝は午前5時に起きているのだが、昨日、新聞を取りに表に出るとその時間では完全に明るくなっていた。いつの間にこんなに明るくなるのが早くなってしまったのだろうと驚いたのである。まあ、毎年のことではあるのだが・・。
今日は夜明け前には出港したいので午前4時過ぎには港に到着しておかねばならなさそうだ。

港への道中、少し明るさを見せてきた東の空にひときわ明るく輝く星が出ている。これは金星と木星だそうだ。画像を加工してやっと見えるほど暗いのだが、少し離れて小さく見えるのは火星だ。火星の斜め右上には土星が見えていたらしいがフレームからは切れてしまっている。残念・・。肉眼では見えないのだろうけれども金星と木星の間には海王星も並んでいるらしい。



これでも相当早く家を出たつもりだったが、出港準備を整えてロープを解いたころには相当明るくなってしまっていた。今年も、夏至を迎えるころまではこうやって夜明けといたちごっこを繰り返すのだろうと思う。



今日の予定はというと、加太に到着した頃に潮が止まるはずなので、潮がそこそこ動くようになるまでは大和堆ポイントか四国沖ポイントでアジを狙ってみてその後真鯛狙いに転じてみようと考えている。

連休の中日なので船はかなり出ているのかと思ったが、そうでもない。むしろ少ないくらいだ。休日が多いとけっこう分散するのかもしれない。しかし、帝国軍の姿も見えないというのが不安材料だ。まだ下り潮が残っているので友ヶ島の北側にでも潜伏しているのだろうか・・。
田倉崎から海域を眺めてみると、テッパンポイント付近に数隻、四国沖ポイントに2隻、大和堆ポイントには船の影が見えない。これでとりあえずは四国沖ポイントからスタートに決定だ。



いつものサビキ仕掛けをセットしてスタート。
魚探の反応はなく、アタリもない。しかし、しばらくして集まってきた数隻の中にはタモを入れている船がある。魚はいるようだ。
僕も底の方を意識しながら仕掛けを操るがまったくアタリがない。魚探の反応が時々は出るようになってきたがやっぱりアタリはない。これは仕掛けが悪いのかもしれないと、早々と毛糸の高仕掛けに変更してみた。それでもやっぱりアタリはない。
まだ潮は動き始めていない時刻だが、ここで粘っていてもダメだろうと判断してテッパンポイントへ移動。



しかしここでもまったくアタリがない。第2テッパンポイントに移動してみてもダメだ。
潮は上っているはずだが、船は北向きに流れても仕掛けはついてこない。おそらく底潮は動いていないのだろう。だからアタリがないのかもしれない。ダメだな~と思いながら沖の方を見てみると、大和堆ポイントに船が集まってきている。ひょっとしてアジが釣れているのかもしれないと思い、最後の移動をおこなう。



再びサビキ仕掛けに変更し、8センチのビニールを2センチほどカットしてみた。ひょっとして長い疑似餌には食いつかないのかと思ったけれども、結果は一緒だった。
ここでも時々、タモを入れている船を見たが僕の仕掛けには見向きもしてくれない。次の転流時刻まではやろうと考えてはいたけれども、ここで精根が尽き果て、午前9時で終了。

去年の今日も加太に来ていたが、アジを数匹釣っていたようだ。
ブログを読みかえしてみると、朝は寒かったが港に戻ったときには養翠園の庭でセミが鳴いていたというようなことが書いてある。今日はヤッケを羽織ってカッパのズボンをはいてちょうどいいというような気温であった。その差が釣果の差につながってきたのだろうか。
今年は山菜も遅れていて、それはきっと地熱の上がり具合が例年に比べて遅かったというのが原因だったのだろうけれども、水温も同じで、底潮が動かないというのも比重の重い冷たい潮が底の方に居座っていたからなのかもしれない。それじゃあ、前回はハマチが5匹釣れたという理由はどう説明するのかと問われてしまうが、釣り師の話の時制には現在がなく、あるのは過去と未来だけであるというのは昔からの習しなのだから仕方がない。状況が悪いのは”現在”だけなのだから・・。
しかし、今から思うと、底を釣らずに中層を探ってみればよかったのかと言ってもそれはあとの祭りだ。また、去年の仕掛けは同じサビキでも糸は細いものを使っていたようだ。道具箱にはひとつだけその仕掛けが残っていたのだが、それを使えばよかったと思うのも後の祭りにしかならないのだ。
ここにも”過去”の時制しか残っていなかったのである・・。


あまりにも長い間船に乗っていなかったからというのでもないだろうが、デッキの片隅に植物の小さな芽が出ていた。



どこかから種が飛んできて、デッキに積もったホコリの中に根を伸ばしているのだろうが、種ができるのは秋ごろだと考えると、僕はいつからこの船の掃除をしていないのだろうかとちょっと驚いてしまうと同時に整備のほうも大丈夫だろうかと心配になってくるのである。今日の釣行は知床で観光船が沈没してから初めてということでもっと心配になるのである。
僕の船なんか構造が単純だからエンジンと舵さえきちんと作動していれば大丈夫なはずだ。先代の翠勝丸でやらかしたトラブルを教訓に、出港前は必ずエンジンオイルとギアオイルの残量を確かめ、舵はちゃんと回るかどうかを点検してから岸壁を離れるようにはしている。父親の口癖は、「ディーゼルエンジンの船は、エンジンが回っている限りは安全なのだ。」であったが、僕は今でもその言葉を信じている。
しかし、専門家に定期的にメンテナンスをしてもらっているわけではなく、船の老朽化も気になっている。燃料タンクやエンジンの各場所のシールは完全ではなさそうで色々なものが滲みだしてきている。それはおそらく致命的な故障ではないのだろうがなんだか気にはなっている。小船のほうもしかりだ。
でも、こういった心配は僕だけではなく、相当いろいろなところでそうなっていて、その心配が現実のものになってしまったのが知床の事故だったのだと思う。
同業者の人々は事故を起こした業者の杜撰な安全管理を非難するようなコメントを出してはいたが、案外、自分の所じゃなくてよかったと思っている人もいたのではないだろうか・・。
確かに、連絡手段がなくなってしまっていたというのはまったくの論外だとは思うけれども・・。誰かが、「早く帰ってこい。」とは言えなかったのだろうかと思うと残念ではある。
遭難した船長はどれほど海の経験がある人かは知らないが、僕みたいに一度でもそんな危険な経験をしていたらもっと別の行動ができたのかもしれないと思うとそれも残念である。 
こんなことを考えてしまうのは、僕の職場でも同じようなものだからだ。
僕の仕事場はとある観光施設で、そこを所有している会社から管理と運営を下請けで請け負っている会社に勤務している。
客の安全管理は運営を請け負っている僕たちの会社の義務なのであるが、業務が始まった1年前、安全管理マニュアルというものが無かった。僕はここでは窓際の傍観者であるので、そんなものを作る義務はないのであるが、いくらなんでもそういうものがないのはまずいんじゃないかと思って暇をみつけて作ったのが去年の夏ごろだ。しかしそれは、たまたま、去年の今頃、コロナの緊急事態宣言のおかげで休業していたので施設の所有会社が防災講習というのをやってくれたものだからそこで聞いた話と前の職場で習ったことを合わせて作っただけのものだ。もし、緊急事態宣言がなければそれさえも作れなかったかもしれないというほど管理会社からの情報もないのが事実だ。
ここは大きいビルの一部になっているのでビルの防災部門とも連携しなくちゃいけないのでこれをたたき台にして施設の所有者と話し合いをしてくださいと上司に渡して10か月近くは経とうとしている。僕は窓際なので親会社である施設の所有者側の偉い人にお目通りをさせてもらえるような身分ではないのでその後はどうなったかということなど気にはしていなかったのだが、この事故があってあらためて現場の係長に聞いてみたが「う~ん、知らないですね~。」という寂しい答えだった。
一番怖いのは地震なのだろうが、現場のスタッフでその時にどういう行動をしなきゃいけないかということを知っている人がどれだけいるのだろうかと思うと恐ろしくなるのだ。何かあったとき、1637段の階段を下りてゆく方法を知らないのである。事実、ついふた月ほど前にも、気分が悪くなった客のために救急車を呼ばなくちゃいけないところ、誰も呼んでいなかったというトラブルが起こっていた。これなども僕が作ったマニュアルには自分たちで119番通報しなければならないと書いてあったのだが、誰もそれを読んでいないものだからビルの管理部門に連絡したら呼んでもらえると思い違いをしていたことが原因だった。
遊園地や工事現場でも、杜撰な安全管理が原因で事故が起きたというニュースが忘れたころにまた出てくる。もちろん、そんな杜撰なところというのは多くはない。しかし、少なくもないと思っておいた方がよいように思うのである。

僕も含めてなのだろうけれども、惰性で仕事をしている人間は他人の安全などには関心がないのだ。
自分の身は自分で守らなくちゃいけないのが現代である・・。

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「科学で大切なことは本と映画で学んだ」読了

2022年05月03日 | 2022読書
辺政隆 「科学で大切なことは本と映画で学んだ」読了

「人生で大切なことはOOで学んだ」というタイトルの本はよく見るのでその手の本なのかと思いながら読み始めたが、「科学で大切なこと」というよりも、科学を題材にした書籍や映画をとり上げて解説を加えているというものだった。
著者は、いろいろの大学の客員教授という肩書に加えて、サイエンスライターという肩書も持っていて、そちらの部分の領域で書かれている。

僕自身も自然科学の分野には興味があるので専門書を読むことはできないが、一般向けの書籍はよく読んでいる。科学者自身が書いている書籍もあれば、サイエンスライターという職業の人たちが書いたものもあった。
どちらがどうということはないけれども、サイエンスライターが書いた本のほうが読みやすいとは思うが、ちょっと奇をてらいすぎているんじゃないかとか、そこまで読者は無知じゃないよと思ったりすることもあった。しかし、著者が書いている通り、自然界の不思議を共感させてくれるのは詩人の仕事だが、知的好奇心を満たしてもらうにはサイエンスライターの仲介が必要である。科学も文化なのだということだ。こういった人たちが様々なメディアを通して、人々の暮らしと科学の関りを身近なものにしてくれているのだろう。きっと、NHKや民放の科学番組などにもこういった人たちが関わっているのに違いない。

この本には僕が興味をそそりそうな本と映画がたくさん紹介されている。ノンフィクションはもとより、小説もあれば、映画も科学者が主人公ではなくて脇役だったりするものもある。原作がある映画は両方とも読んで観ているのは当然のようだ。よくぞこれだけの資料を読んでかつ観たものだと思う。プロというのはここまでやるのだということだろうか。
また、おそらくこれは著者の技量なのだろうが、それらの本や映画の中身を、あらすじ全部をさらけ出してはいないけれども興味を持たせる程度にうまくチラ見せしている。そこは浜村淳の映画解説とはちょっと違うのである。
著者は僕より10歳ほど年上の人であるが、ちょっと枯れた文体も安心して読める。
興味のある本はメモしたので、当分は図書館に行って何を借りようかと悩む必要がなさそうである。
惜しむらくは、これは著者の専門分野というところもあるのだろうが、紹介されている本や映画は、生物学や進化論についてのものにほぼ限定されてしまっている。物理学や天文学についてのものは皆無であった。もう少し幅の広い分野で紹介をしてもらいたいところだ。
加えて、2021年の出版にもかかわらず、紹介されている書籍が2010年代の前半までに出版されたものがほとんどであり、ちょっと古いものが並んでいるということだ。科学の進歩は日進月歩だ。最新の科学情報にも触れられるような書籍の紹介もしてほしかったところだ。もちろん、過去からの歴史をつなげて科学を理解するべきだという考えもあるのだろうが、本を読める時間は限られているので、安直に最新のものだけつまみたいと思うのは邪道だろうか・・。

著者は、ダーウィンの「種の起源」の発表というものが科学の世界にもたらしたものの重要性というものをこの本を通して強調しているように思う。
「種の起源」が出版されたのは1859年だったそうだが、その少し前、サイエンティストという言葉が科学者を意味する単語として提唱された。それまでは「自然哲学者」とか「科学の人(マン・オブ・サイエンス)」などと呼ばれていた研究者を、アートに従事する人はアーティストなのだから、科学に従事する人はサイエンティストと呼ぼうと提唱されたそうだ。職業的科学者が出始めていたという時代背景もあった
ただし、当時の科学者の使命は、自然の法則を発見することで神の叡智を知ることにあった。そもそもケンブリッジ大学やオックスフォード大学の教授連は、英国国教会の聖職者でもあったのだから、神の存在を疑うことなど問題外だったのである。
そんな時代に「種の起源」は出版され、そうした伝統に激震を与えたのだ。
それまではキリスト教的な思想がヨーロッパを支配していたから、「万物は神が創りたもうた。」と考えることが常識であった。そこに革命的な考えを持ち込んだのが進化論であった。それ以降、科学は形而上の神の存在を否定し、唯物的な考えに移行してゆくのである。しかも、この「種の起源」という著作は引用文献もない一般向けに書かれたものであったということが、サイエンスライターとしての著者にとっても重要であったのかもしれない。一般向けの書物であっても世界の常識を覆すことができるのであるという自負と使命をそこに感じているのではないだろうか。

遺伝子組み換え食品、再生医療、放射能、ウイルス・・、科学にまつわる様々なものが身近になってきている現代でこそ、サイエンスコミュニケーションを担うこういった人たちが重要度を増してきているのではないだろうか。驚くべき話だが、アメリカでは今でも人口の半分は宗教上の理由から神がすべてを創造したと考えているそうだ。そんな中でも正しい知識を伝え、資源と技術を有効に使って生きていかなければならないのが現代であるのだろう。科学者というのはそういうことまではなかなか手が回らないし、ステレオタイプ的に見しまっているのかもしれないが科学者というのはコミュニケーションができない人が多そうだ。
人気アナウンサーがこういった仕事を目指して大学の研究員になったということがニュースになっていたが、この人なんかは相当先見の明があるのだろうと思う。
まったくの余談だが、ダーウィンとリンカーンは生まれた日が同じだそうだ。(1809年2月12日)そういったこともサイエンスライターの人々が見つけてくれないとなかなかわからない蘊蓄だ。

僕も、まったく人生の役にも他人の役にも立たないだろうが、いくらかは情報リテラシーを持つべくこれからもこの手の本は読み続けていきたいと思うのだ。

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「哲学の名著50冊が1冊でざっと学べる」読了

2022年05月02日 | 2022読書
岡本裕一朗 「哲学の名著50冊が1冊でざっと学べる」読了

こういうタイトルの本、たとえば、「3分でわかる・・」とか「サルでもわかる・・」いう本を読んでも、そのものについて本当に理解できるものなどはないというのはもちろんわかっているのだが、つい安直に読み始めてしまう。
この本もそういう手の本だが、まだ、”ざっと学べる”程度だと書いているだけ親切だとも思う。
それでも何か哲学について知るための取っ掛かりが欲しかったのである。
哲学というのは、おそらく、すべての思考の原点なのではないかと僕は思っている。実際、科学も宗教も文学もすべては哲学から生まれた思考や理論構造が発展していったものと言われている。特に、ギリシャ時代の哲学者たちは科学者でもあったりした人が多い。
と、いうことは、人類の思考のビッグバンの元となったのが哲学であると言えるのではないだろうか。そう思うと、少しでもそれに近づいてみたいと思うようになったのだ。
また、量子力学の本などを読んでいると、今度は科学と哲学の境目があいまいになってきているのではないかと思えるようなところがある。これはきっと思考のビッグバンが再び収束し、思考のビッグクランチを迎える前兆ではないのだろうかと思ったりし、よけいに哲学について知りたくなってきたのである。

そう思いながら入門書のそのまた入門書のようなこの本を読み始めたのだが、やっぱりさっぱりわからない。ところが、中盤を越えて、近代の哲学者が登場するころになり、その辺りで紹介されている哲学者のひとり、ハイデッカーのページに、『アリストテレス以来、哲学が問い続けたものは、「存在」である。』と書かれていた。これで、はたと合点がいった。哲学の思考というのは、自分たちはどうしてここに存在しているのかという疑問をひたすら考えてきたことなのではないだろうかということだ。そしてその先には、これからどこに向かうのだろうかという疑問が続くのだろうが、それはまさしく人間が知恵を身につけて以来知りたいと思ってきた核心だったのである。まあ、普通の人ならそんなこととうの昔に知っているということになるのだが、無知というのは悲しいのである。
だから、この世界や宇宙の存在を思考した哲学者たちは天文学や物理学などの礎となり、人間の存在を思考した哲学者たちは医学や宗教、政治学、文学の礎となっていったのではないだろうかと思えるようになった。そして、存在そのものの定義と真理を追い求めて続けているのが哲学者ということなのだろう。
もっとも、自分の存在にしか思考が行かない人達はただのナルシストになりさがり、存在自体に興味がない人達はそもそも哲学には興味を抱かなかったのは今も昔も変わりはないはずだが・・・。
そういうフレームでこの本を読んでいくと、少しは哲学についてわかるような気もしながら、やはりそんなに簡単ではない。
幾多の哲学者が「存在」について語ってきたのであるが、本の中に書かれている、その、「存在」について解釈されていると思われる個所を列挙してみたのだが、まったく何を書いているのかがわからない・・。
ソクラテスは「無知の知」を知ることが自らの存在を知ることであり、
セネカは「人生は短いのではなく、時間をどう使うかが重要だ。」と言い、
フランシス・ベーコンは「知は力なり」と言う。
ルネ・デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と言い、
ブレーズ・パスカルは「考える葦」だと言う。この二人の言葉は有名で、「存在」という言葉をキーワードにして読み直してみると、なるほどと思えなくもない。
ジョン・ロックは、経験が人間の存在を創り上げてゆくという「経験論」を唱え、
デイヴィッド・ヒュームは「理性は情念に支配されている」とした。
イマヌエル・カントは「認識は経験とともに始まる」としながらもすべての認識が経験から生じるわけではない」とも考え、「合理論」というものを作り出した。
ゲオルク・ヘーゲルは「人間の個人的な意識よりも、いっそう大きな理性や精神の概念」を強調した。
セーレン・キルケゴールはわけがわからん。『人間は精神である。しかし、精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし自己であるとは何であるか。自己であるとは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。人間は、有限性と無限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との統合、要するにひとつの総合である。総合というのは、ふたつのものの関係である。このように考えたのでは、人間は、まだ自己ではない。』これこそ、THE哲学という文章だ。何を言っているのかがさっぱりわからない。そもそも、文法的にこの日本語は正しいのだろうか・・。
アンリ・ベルクソンは「物質(身体)と記憶(心)」は別々の存在であるという二元論を唱え、
マルティン・ハイデッガーはそれらすべての存在の統一理論を打ち立てようとした。しかし、それは成し遂げられることなく亡くなってしまう。
その後に続いた哲学者たちも存在を考える。ハイデッガーは世界と個人の存在の関係に言及した。これは存在を定義するうえで大きな転換点になったらしい。
ジャン=ポール・サルトルは「即自存在、対自存在、対他存在」という概念から人間存在の細密な分析をおこない、
ハンナ・アーレントは人間の条件というものを設定し、それは「労働、仕事、活動」というふうにその重心が移ってきたとした。
モーリス・メルロー=ポンティは受動的な生きられた世界(世界内存在)よりも存在が重要という。(肉の存在論)
チャールズ・テイラーは人間が「社会的動物」であり、人間にふさわしい能力は社会の中でしか開花できないと考える。
ベルナール・スティグレールは、生まれつき欠損動物である人間にとって。「技術」は必要不可欠であると考える。
クァンタン・メイヤスーは、人間以上の絶対的な存在を数学や科学が理解するものの中に問いかける。
マルクス・ガブリエルは、自然科学的宇宙だけでなく、心に固有の世界(心の世界)も存在すると考える。


まあ、短絡的な脳みそで総合してみると、存在というものは思考することで生まれてくるものであるということを言っているような気がする。思考しなければ現実(実体)は存在していないことになる・・。どこかで聞いたことのように思うのは、東洋哲学の粋である仏教にも同じような考えがあるからだろうか。また、量子論でも、観察しないかぎりは対象物は雲のように不確かな存在であるという。
地域が違っても同じような結論に到達するというのは、人間の根本の思想の中にそういった考えがあるからなのだろうか。不思議な気もする。

科学が発達し、人間の意識のメカニズム、宇宙が生まれる前はどんな世界がここにあったのかなど、そういった、おそらく過去から現在までの哲学者たちが知りたいと思っていたことが現実に解き明かされようとしている。また、人のありようもデジタルの時代を迎えて今までとはまったく違う認識を与えようとしている。
哲学の中では、これまでも様々な「存在」に対する考え方が生まれては端のほうに追いやられということを繰り返してきたそうだが、ここに来てまた大きなパラダイムシフトが始まるのかもしれない。この本の最後の方に出てくる、クァンタン・メイヤスーという人はデジタル時代の哲学者だとも言われているそうだから、あたらしい時代の哲学というものが生まれつつあるのかもしれない。

まったくオタク的な見方だが、アニメのプロットには、哲学的な考えがたくさん取り入れられてきたように思う。例えば、ニーチェが書いている「超人」というのは機動戦士ガンダムに出てくるニュータイプという人たちそのものではないかと思えてくるのである。ニーチェの考えでは、「人間」とは「動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱」に過ぎないそうだ。人類が宇宙に暮らす時代が本当に来るのかどうかは知らないが、コミュニケーションの幅が広がり、とんでもなく大量の情報に簡単にアクセスできる世界になり、人類の革新というものが起こってしまうかもしれない。また、攻殻機動隊というアニメでは、デカルトの二元論そのままの世界が舞台だ。西洋哲学ではないが、エヴァンゲリオンの世界も、吉本隆明の「共同幻想」がベースになっているのではないかと思えるところがある。きっと、原作者たちがこういった哲学に通じていてそれをプロットに取り込んでいったのかもしれないだからこそ時代を超えても色あせず人気を呼び、時代ごとにその解釈が更新されていくのだと思う。
そうなってくると、哲学というものはやはり教養のひとつとしてはいくらかでも理解をしておかねばならないものではあるのだなとも思えてくるのである。


最後に、これから先、哲学に関する本をどれだけの数を読むのかわからないが、これから哲学の一端を知り形作るコラーゲンになるかもしれないので各哲学者とその人に関するキーワードを書き残しておこうと思う。

ソクラテス:「無知の知」
プラトン:「イデア」
アリストテレス:「形而上学」
セネカ:「ストア派」
ピエール・アベラール:「唯名論」
トマス・アクイナス:「スコラ哲学」
ミシェル・ド・モンテーニュ:「懐疑論」
ルネ・デカルト:「近代主観主義」「方法的懐疑論」「二元論」
ブレーズ・パスカル:「人間=死刑囚論」
バールーフ・デ・スピノザ:「一元論」
イマヌエル・カント:「認識論におけるコペルニクス的転回」
ジェレミ・ベンサム:「功利主義」
ゲオルク・ヘーゲル:「ドイツ観念論」の完成者
アルトゥール・ショーペンハウエル:「ペシミズム」
J・S・ミル:「満足した愚か者よりも不満足なソクラテスである方が良い。」「自由論」
セーレン・キルケゴール:「実存主義」「死に至る病」
フリードリヒ・ニーチェ:「超人」
エトムント・フッサール:「エポケー」「現象学」
アンリ・ベルクソン:「エラン・ヴィータル」
マルティン・ハイデッガー:「世界内存在」
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン:「写像理論」
ジャン=ポール・サルトル:「実存主義とマルクス主義の統合=弁証法的理性批判」
ハンナ・アーレント:「人間の条件」
ミシェル・フーコー:「構造主義」「大いなる閉じ込め」
ジャック・デリダ:「脱構造」
ユルゲン・ハーバーマス:「コミュニケーション的理性」
リチャード・ローティ:「対プラグマティズム」「言語論的転回」
チャールズ・テイラー:「個人のアイデンティティは社会的承認による」「近代的アイデンティティ」
アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート:「帝国とマルチチュード」
ベアード・キャリコット:「エコファシズム」「再構築主義のポストモダニズム」
ペーター・スローターダイク:「シニカルな理性」
スラヴォイ・ジジェク:「現実界」
ベルナール・スティグレール:「メディオロジー」「技術なくして人間なし」
クァンタン・メイヤスー:「思弁的実在論」
マルクス・ガブリエル:「新実在論」「世界は存在しない=世界以外のものはすべて存在する」
コメント
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