イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「なぜあの人のジョークは面白いのか?:進化論で読み解くユーモアの科学」読了

2022年05月13日 | 2022読書
ジョナサン シルバータウン/著 水谷 順/訳 「なぜあの人のジョークは面白いのか?:進化論で読み解くユーモアの科学」読了

本当に最近は笑うことがなくなった。特に生活の大半を過ごしている会社ではそういうことがなくなった。特に誰に話しかけるでもなく、話しかけられるでもなく、やらなければならない少しの仕事をこなして定時に帰るだけだ。もっとも、「ヒロシのぼっちキャンプ」を聖書のように何度も観返している僕にとってはその方が快適であったりするのでもある。特に、ちょっとあそこがおかしいのではないかと思う女帝に絡まれるくらいなら誰にも話しかけられない方がましなのである。一応これでも、事務処理は早い方というか、周りはまったくパソコンを使えなくて、アナログな事務処理の仕方しかできないのでそれに比べればエクセルとワードの機能をそれなりに使って事務仕事をすると、やらされている仕事は比較的早く始末することができる。空いた時間、フリーWi-Fiの環境が整った事務所で個人のパソコンを使ってネットニュースを眺めていてもサボっていることに対して何の痕跡も残らない。これは窓際天国というべきかもしれない。
しかしながら、笑いと精神衛生というのは連動しているし、多少は他人を笑わせるスキルがあれば周りを和やかにもできるのかと思い、こんなタイトルの本を探してみた。
タイトルを見る限り、面白いジョークにはどんなカラクリがあるのか、裏を返せば、こうしたら面白いジョークが言えるのかというハウツー本に近い本なのかと思っていたがまったくそうではなかった。確かに、サブタイトルを見てみると、「進化論で読み解く・・」という言葉がはいっているとおり、笑いというのは人類の進化の中でどんな役割をしてきたかというような内容であった。そして、期待していた、どうしたら面白いジョークが言えるのかという部分については、これは文化の違いが如実に表れているのが原因だろうが、たくさん記載されているジョークのほとんどがその面白さをまったく理解できない。だから、途中でそっち方面にはまったく期待してはいけないのだということがよくわかってきたけれども、この本に書かれている、相手を笑わせることが人類の進化にどうかかわったかという見解はそれよりももっと面白かった。

この本の著者は、以前読んだ、「美味しい進化: 食べ物と人類はどう進化してきたか」の著者でもあるけれども、この本に書かれていた「家畜化症候群」という現象はついこの前、NHKの番組で取り上げられていた。けっこう話題性のあるものを紹介している研究者なので今回の視点も面白かった。

まず、笑いはどうして引き起こされるのかというところからこの本はスタートしている。それは、「不調和の解消」であるという。桂枝雀師匠は、笑いとは、「緊張の緩和」とおっしゃっていたけれども、同じようなことを言っているのだろうか。なんだか違和感のあるストーリー展開が、最後の一節で納得するというのは落語のオチと同じような気がする。
解剖学的には、その不調和を検知するのは大脳皮質の中側頭回と右内側前頭回というところらしい。不調和を解消するのは、左前頭回と左下頭頂小葉いうところであり、不調和の解消によって引き起こされる愉快な感覚を処理しているのは、扁桃核を含む皮質下部の中にある4つの領域だそうだ。もう、脳の中全体で笑いを作り出しているような感じである。

ここでひとつ、自分でもあまりこだわりもなくお笑い番組を見ていたことに気がついたのだが、ギャグとジョークというのは思えばまったく異なるものであると考えついた。当たり前といえば当たり前のことだがじっくり考えたことはなかった。ギャグはお決まりの言葉を唐突に叫ぶことによって笑いを誘う。これも、ギャグによって、「この人、何を突然言い始めるの?」という緊張が言い終わった後に緩和されるということによって緩和されるのだろう。同じギャグに慣れてくると、「何を突然」という緊張がなくなり面白くなくなるのだろうと想像する。対して、ジョークというのは読み進めたり聞いているうちに違和感が募ってきて最後のオチで「なるほど、そういうことだったのか。」という解消が来るので、少し時間がかかる。ギャグの突然と、違和感が募ってくるまでの時間というその時間の差が慣れてきて面白くなくなるかどうかという違いが出てくるのかもしれない。ジョークの典型のひとつが落語なのだと思うが、何度聞いても面白いものは面白い。そういう意味で落語には古典と呼ばれるものが存在するという理由なのかもしれない。

では、人はどうして笑う必要があったのか。
チンパンジーも笑うが、その笑い方とヒトが思わず自然に笑った声を遅いスピードで再生した声はとてもよく似ているので見分けがつかないそうだ。対して、ヒトが意図的に出した笑い声を遅いスピードで再生した声は誰でもヒトの声と識別できるそうである。それは、意図的に発せられた笑い声を聞いてその人が誰なのかということが簡単に答えられるが、自然な笑い声を聞いた場合はその人が誰であるのかということを識別するのはかなり難しいということに繋がっている。
要は、笑いは社会的なものであるということである。
霊長類はしょっちゅう毛づくろいをしあうことで長い年月にわたって関係を維持する。しかし、それでは時間がかかりすぎて集団を50個体より大きくできない。その結果、発声による毛づくろいともいえる笑いが生まれた。言語が進化するまではそれが人同士を結び付けていたというのだ。また、笑い合うと脳内麻薬のエンドルフィンが分泌され幸福感をもたらすことで相手への思い入れを強めさせる。
そして、その笑いの起源というのは子供の遊戯発声というものにあるという。これは、相手に「異常なし」と伝えるためのシグナルであったという。笑いが伝染しやすいのは、遊んでいる仲間全員が、自分には危害を加える意図はないということを知らせ合う必要があるからであり、そののちにユーモアが笑いの引き金として新たに付け加えられ、もともとの遊戯発声が持っていた、楽しさ、安全性、自発性、伝染性という特徴が引き継がれた。それは、笑いは危険でないときの不調和の時にしか引き起こされないということからもわかる。

そして、著者が考える笑いの目的というのがもっとも興味深い。それは、他個体よりも自分の遺伝子を少しでも多く残すという本能がそうさせるのだというのである。その説とはこうである。

動物全般、パートナーを選ぶ権利を多大に有しているのはメス(女性)のほうである。人間の場合、女性の立場から考えてみると、自分の子供が知性的であってほしいと願うのは当然である。ユーモアを理解したり、うまいジョークを言おうとすれば知性が必要である。知性とウイットには相関があるのである。だから女性はウイットに富んだ男性を優先して選ぶ傾向にあるというのだ。これは、クジャクのオスは立派な羽根を持っているほどメスにモテるということと一緒なのである。知性のアピールの手段としてユーモアが生まれたのであるというのが著者の見解なのである。これが面白い。
確かに、お笑い芸人の奥さんが超有名女優というのはまったく珍しいことではない。また、自らもよく笑う芸人さんはきっとエンドルフィンの分泌も多く、他人に対するいたわりの気持ちも普通の人よりも大きいから余計に女性の気を引くことができるのだろう。
最近、めっきり笑わなくなった僕はまったく逆の方に進んでいるような気がするのである・・。

しかし、一方では、コメディアンは普通の人よりも短命であるというデータもあるそうだ。ある意味、人を笑わせることが自分のアイデンティティだと思う気持ちは、それができなくなった時の恐怖をよけいに高めてしまうのかもしれない。エンドルフィンは脳内麻薬といわれるくらいだから禁断症状も強いのだろうか。
ダチョウ俱楽部の上島竜兵が亡くなったというニュースがこの本を読んでいる最中に流れていた。この人もそういった人のひとりであったのかもしれないと思うと悲しい。
これは不謹慎な見解かもしれないが、トップではなく、中堅くらいの位置のトリオだったからお気楽にやっていて、お約束のギャグは限界効用逓減の法則を超越してまった安定感があったからそんなに知性を発揮しなくても余裕で芸能界を戦っていると思ったから特に驚いたのである。
そんなに悩むくらいなら不愛想な窓際でいるほうが人生は楽なのではないかとこのニュースを見ながら思ったのである。

僕は遺伝子の生存競争にはまず勝利できないだろうというのがこの本を読んだ結果、出てきた結論である・・。

コメント
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