イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「大英自然史博物館 珍鳥標本盗難事件―なぜ美しい羽は狙われたのか」読了

2022年05月23日 | 2022読書
カーク・ウォレス・ジョンソン/著 矢野 真千子/訳 「大英自然史博物館 珍鳥標本盗難事件―なぜ美しい羽は狙われたのか」読了

この本は、2009年に発生した、大英自然史博物館のトリング分館での鳥類標本の盗難事件について書かれたノンフィクションである。
前回読んだ、「科学で大切なことは本と映画で学んだ」に紹介されていた1冊であった。
著者はルポライターでもなくジャーナリストでもなく、NPOの活動家だ。
アラビア語を学びイスラムの言語と政治について学んだあと、米軍撤退後の都市計画に携わり、同僚として働いたイラク人の通訳や医療関係者が迫害を受けているのを知り、その人たちを難民としてアメリカに呼び寄せる活動をしていた。
その活動に疲れ、あるときニューメキシコ州の北部にフライフィッシングに出かけた時、ガイドから大英自然史博物館での鳥の羽根の盗難事件の話を聞いたのである。
その話を聞いた著者は、なぜか気になり、行き詰った心の気晴らしのつもりでさらに深く調べてみようと考えた。そして、この盗難事件の裏に深く横たわる大きな闇を垣間見ることになるのである。

事件の経過はこうだ。
事件は2009年6月23日に発生する。つい最近の事件である。
犯人の名前は、エドウィン・リスト。ニューヨーク市の北部、クラヴェラックに越してきた少年である。逮捕されたときはイギリス王立音楽院の学生であった。10歳の時に父親が持っていたフライタイイングのDVDを見て興味を持つ。そのフライとは、日本で使う渓流用のフライなどではなく、クラシックスタイルのサーモンフライである。



このフライはカラフルなデザインでかつ希少な鳥の羽根が使われているというのが特徴だ。
この世界は、釣りをせずに、タイイングだけを趣味や本業としている人たちがいるくらい奥の深い世界なのだそうである。

エドウィン・リストはひとつのものに興味を持つととことんのめり込むという性格で、親もその興味のある分野の才能を伸ばしてやりたいと思う人たちであった。のちに音楽に興味を持ち、イギリスの音楽学校を目指すことができたのも、そういった理由からであった。
13歳の時にはすでにコミュニティの中で目立つ存在となっていた。
ビクトリア王朝時代の正統なクラシックスタイルのフライを巻こうとすると希少で高価なマテリアルが必要だ。すでに取引が禁止されている種類の鳥も多い。あるとき、コミュニティのタイヤ―のひとりから、大英自然史博物館のトリング分館に保存されている資料の話を聞く。ここには、ダーウィンに並ぶ進化論者である、アルフレッド・ラッセル・ウォレスが集めた鳥類も数多く保管されている。

この本の最初と次の章はそのアルフレッド・ラッセル・ウォレスについてと熱帯の鳥たちの受難について書かれている。
ウォレスは1823年1月生まれ。生物学の専門的な教育を受けているわけではないが、この時代に発刊された探検博物学者たちの手記に触発されアマゾンを目指す。1848年アマゾンで4年間標本集めをしたが帰路の途中で乗っていた船が火災に遭いほぼすべての標本と記録を消失。その後1856年、マレー諸島へ赴き、7年間の標本集めの途中、自然淘汰による進化論を思いつく。そしてダーウィンにその旨の書簡を送り、「種の起源」の発刊につながるのである。この時、活動資金を得るために現地から送った標本の一部を売却したのが大英自然史博物館であったのである。そしてそのコレクションの一部が盗難事件の被害に遭ったというわけだ。

ウォレスの時代、ヨーロッパの社交界では婦人のファッションに熱帯地方の極彩色の鳥をまるごと一羽乗せた帽子をかぶるということが流行した。これは、マリーアントワネットが1757年に羽根飾りを使ったのが最初だと言われているが、以来、ヨーロッパの社交界では珍しく貴重な鳥を頭に載せることがステイタスとなりそれが珍しいものであるほど裕福であり魅力的な女性であると認識されるようになる。その頃発刊されるようになった雑誌を通して一般女性にもそのファッションの波は広がり、それにともなって野鳥の乱獲が進んでゆく。



ウォレスもそういう現象を危惧していたそうだ。
その陰で同時期、英国紳士のたしなみとしてフライフィッシングが流行し始めた。1895年に刊行されたジョージ・モーティマ・ケルソンという貴族が書いた本には貴重な野鳥の羽が使われたたくさんのサーモンフライのイラストが掲載されていた。この本には、もっと普通に手に入れられる羽根でもサーモンを釣ることができるが、貴重な羽根を使ったフライで釣ることこそ紳士であるというようなことが書かれているらしいが、著者は、魚はそんなことはまったく考えていないと皮肉るのである。

この盗難劇の舞台になった場所は、イングランドのハートフォードシャー・トリングにある大英自然史博物館の分館である。イギリスの銀行家のロスチャイルド家の2代目が21歳の誕生日プレゼントとして贈られた私設博物館が元になっている。鳥類学の研究施設としては世界でも有数であり、海外からの研究者の来訪も多く、鳥類・哺乳類・爬虫類の剥製標本コレクションと昆虫標本コレクションの質の高さで有名だそうだ。

エドウィン・リストがサーモンフライ製作にのめり込んでいた頃、貴重な鳥の羽に模した染め物や人工のマテリアルが存在したが、のめり込めばのめり込むほどに本物のマテリアルに対する憧れが募る。
大英自然史博物館に本物の鳥の仮剥製を見に行くという希望は、もう一方の興味が実り音楽家としての教育を受けるため、2007年イギリスの王立音楽院に入学できたことで実現する。
フライタイイング、音楽、特定の分野に異常に興味を示しのめり込むという性質は、逮捕後の判決に影響を及ぼすアスペルガー症候群の特徴であるとされた。

リストが犯行に及ぶまでの経過はこうだ。
2008年11月5日 大英自然史博物館を下見、その後、キャリーケース、ガラスカッターを購入。
2009年6月23日犯行に及ぶ。博物館の鳥の剥製を所蔵している部屋に一番近い通りの塀を乗り越え、ガラスカッターで窓ガラスを切り忍び込む。その時、割れたガラスの破片で傷を負い、血痕を残し、ガラスカッターも落としてしまう。後にこれが犯行の証拠となる。
翌日、ガラスが割られていることが発見される。博物館は盗難を警戒していたダーウィンビーグル号で航海中に採集したガラパゴスのフィンチやドードー、オオウミガラスなどの鳥の皮や骨格、オーデュポンの「アメリカの鳥」の初版本などの貴重な資料が盗難に遭っていないことだけを確認し、安心する。

ひと月以上あと、2009年7月28日犯行が発覚。博物館の管理人が学芸員を案内し、ウォレスの鳥などが所蔵されている引き出しを開けたときに鳥の仮剥製がなくなっていることに初めて気がついた。
研究者には貴重な存在であってもそれ以外の人達、施設の管理人にさえもほとんど気を留められない存在であったのである。

それから約1年後の2010年5月下旬逮捕につながる端緒が見つかる。オランダで開かれた小さなフライ・フェアで翼と脚が胴に添うように縛り上げられた不自然なマテリアルを見た元覆面捜査官の通報からだった。例えば、剥製や古い帽子の飾りとして残っていたものであれば、羽を広げていたり、ポーズをとっていたりするはずだ。しかし、それは頭蓋骨には綿を詰められもいることから、捜査員は普通ではないということを直感的に感じた。
それを販売していた人間から、誰からそれを買ったかということを聞きだし、ネット上を調べると、「フルートプレーヤー1988」というアカウントで大量に鳥の羽を販売している人物を見つけたのである。
2010年11月12日逮捕。音楽院卒業を前年に控えていた時であった。
逮捕されるまでの期間、リストはネットオークションをはじめ、いくつかのサイトを通して盗品を売りさばいていた。
当初は盗んだことに対する罪悪感と後悔があったけれども犯行が発覚しないことで大胆になり、販売を始めたということが本には書かれていた。また、実家を助けるためや自分の楽器を購入するための資金も必要としていた。

盗難の被害として、299点が盗難されたと認定され、174点が押収(ラベルが付いていたのは102点のみであった。)19点は購入者が自主的に博物館に返納された。

2011年4月8日判決。心理鑑定において、アスペルガー症候群と認定されたことにより実刑を免れ執行猶予12か月となる。
盗まれた仮はく製の価値は25万300ポンドと算定された。その半額が罰金となった。
リストはその後、音楽院を卒業し、ドイツの交響楽団へ入団。

これで事件は終わったのであるが、この経緯を調べていた著者はいくつかの不審点を見つける。
ひとつはその価値判定だ。剥製になる前の標本としての価値は低いものの、フライマテリアルとしての市場価値は一部だけでも40万ドルを超えるという。
ちょっとネットで検索してみると、ブルーチャテラーが26万円で売られているのをみつけた・・。



ひとつは、盗難点数がひとりで持ち去るにはあまりにも多いということ。リストはスーツケースひとつを持ち込んで運び去ったと供述しているが、警察の見分では299点の標本を入れるにはゴミ袋6袋必要であるとされた。
ひとつは、著者が計算したところによると、家宅捜査で発見されたもの、後に返却されたもの、確実にネットで売りさばかれたものを除いても最大で64点の標本が行方不明になっているという事実だ。その価値だけでも数十万ドルに相当するという。その後様々な人たちを調べる中で、2点は買主が見つかったが、依然62点はその行方が分からないままである。
ひとつは、リストは本当にアスペルガー症候群であったのかということ。アスペルガー症候群の人というのは、人と目を合わせるのが苦手であるとか他人とのコミュニケーションが苦手であるとか言われるが、イベントでの振る舞いやその後のインタビューでの受け答えにはそういうことが感じられなかった。

市場価値がこれほどまでに高額で、しかも盗難点数がひとりでは運びきれないほどかもしれないとわかっている中で、どうして共犯者の存在を疑われなかったのか。
それは、単独犯と供述されていること、博物館としては、バラバラに分けられたり、タグが外れてしまった標本には価値がなく、それは修復不可能であるというあきらめから、これ以上犯罪を追及してもまったく意味がないと考えたことと、そもそも、299点の盗難ということが最後の棚卸が10年以上前であったということを鑑みると正確な数字ではないのではないかという疑いもあった。事実、この事件の後も他の博物館で盗難事件が起きているので299点というのは過去、別の誰かに盗難されたものが含まれているのかもしれないのだ。

これらから分かることは、博物館はこういった鳥の仮剥製を鍵のかからないキャビネットの保管しているほど貴重なものという認識がない一方で、一部の人たちだけ、たとえばフライマニアにとっては垂涎の的であるのみであるという落差である。この落差がこの事件を引き起こしたといっても言い過ぎではないのではないだろうか。
もっとも、学術的な価値を考えると未来に残していかねばならないものであるというのは間違いがないのであるが・・。
そして、ネットでつながる趣味の世界の広大さと閉鎖性である。

共犯者の存在について、著者は、そうかもしれない二人の人物にたどり着くが、ひとりは無関係のように思え、ひとりはすでに他界していた。
著者の調査資料の大部分はネットを通して得た1次情報であったが、その閉鎖性が大きな壁になった。おそらくだが、リストだけでなく、盗品であったり密猟によるものであったりという羽根が普通に出回っている世界で、これからも違法なものであっても手に入れたいという欲望が外部からのアクセスを遮断する。
そしてそういった人たちが簡単に繋がれるというのがネットの世界であり、それが新たな犯罪を呼ぶ。

この本は、
『ヒトは美しいものを見ることへの欲望を抑えられない
 そして、それを所有せずにはいられない』
という、パプアニューギニアの元首相の言葉から始まる。そして、その欲望をネットの世界はいとも簡単に叶えてくれ、違法な行動もうやむやにすることができる。この犯罪は、そんな世界が生み出したものであると著者は言いたいのである。
そして、そういう世界はフライタイイングの世界だけではなくいくらでも存在するのだと著者は言いたかったのかもしれない。

著者は明確に示唆はしていないが、犯人のエドウィン・リストも、ほとぼりを覚ましたころ、どこかに隠していた羽根を取り出し再びフライタイイングを始めるのかもしれないし、それをお金に換えるのかもしれないと考えていたようだ。

同じような事件が今もニュース番組をにぎわしている。間違えて振り込まれた4630万円を10日間ほどでネットカジノで磨ってしまったという。
こういう人にも指南役がいて、仮想通貨などに監禁して刑期を終えてからネットの世界から掘りかえそうとしているようにしか見えない。
インターネットというのは、便利で不可欠なツールとなっているが、一方では欲望を限りなく増幅し、それを違法であろうがなかろうがそれを実現させてしまう世界であるということを僕も身近に感じているのである。

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