イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

僕のルーツは・・

2020年02月27日 | Weblog
僕の名字は少し変わっている。このブログのURLにもそのまま使っているが、“マツフサ(matufusa)”という。世間ではあまり聞かない名前だと思う。ここ和歌山市では僕の一党と紀ノ川の向うの方に同じ苗字の一党がひとつあると聞いたことがあるくらいだ。

ときたま、この名字はいったいどうやって生み出されたのだろうかと考えることがある。ついこの前、「日本人のおなまえっ!」というNHKの番組で、名字に「松」という漢字が使われるようになったのは木を燃やすことで人の生活に夜の明るさをもたらし、塩害に強くて防波、防風に役立ったということが要因のひとつだと解説されていた。おぉ、僕の名前に使われている漢字はそんなに人の役に立っているのか、そういえば、すし屋でも松はいちばん高かったなと自己満足していた。じゃあ、「房」はどうか?松ぼっくりが房状になっているところをみてご先祖様が感動したのか?でも松ぼっくりが房状に生っているところを見たことがないぞ。そもそもそんなことで感動する人がいるのか?などと考えながらそこのところは考えないことにしていた。
しかし、つい最近、新聞の連載コラムに、シキミに関する話題が載っていた。あの、仏壇に供える葉っぱだ。そこにはシキミ(このあたりではシキビと呼ぶけれども)はマツブサ科という科に属する植物であると解説されていた。“マツブサ”って僕の名前によく似てるじゃないか思いながら、ひょっとしたらマツブサっていう植物があるんじゃないかと調べてみると、確かにそんな植物があった。

ネットの植物図鑑で調べてみると、
『別名ウシブドウとも呼ばれることもあります。名前の由来は、果実が葡萄の房のような形をしてつるから垂れ下がるように黒い熟した実をつける姿から、ウシブドウと名づけられました。また漢方では葉っぱや茎の部分を生薬名で松藤(ショウトウ)と呼ばれています。』

と書かれている。漢字で書くと、「松房」。あれまあ!僕の名字そのものなのだ。じゃあ、僕の名字の由来はこの植物なのだろうか・・。

   

もう少し詳しく調べてみると、長野県ではマツブサの実を食用にしているらしい。ワインやジュースも作っているとのことだ。また、「松房」という名字についてもう少し調べてみると、和歌山県以外では、福島県に少し在住していて、ためしにネットで自分の名前を検索してみると長野県にも医療関係に従事している人がいることがわかった。

これらの情報を僕の頭の妄想の中でつなげてゆくとこんなルーツが考えられないかとなってきた。
長野県というと冬は雪深く、かつては冷害で食糧にことかき、そこから多彩な食文化が生まれた。山形県にはなるが米沢では上杉鷹山がウコギで生垣を作り、救荒作物として奨励したということからもうかがわれる。
マツブサは日本中どこにでもある植物だそうだが、食べるものが豊富な和歌山県では習慣がなくても長野県や東北地方では古くから食用とする習慣があったのかもしれない。そして、蔓性植物というと、藤原の姓を思い出す。中臣鎌足は天皇家をからめ取ってやろうと藤の文字を名字に取り込んだという逸話があるが、そんな蔓植物のしたたかさと力強さにあやかってこの地方でこの名字が生まれたのではないかと僕は考えた。
さらに妄想は続く。和歌山県と長野県のつながりというと真田幸村だ。西暦1600年、真田幸村は高野山に蟄居させられるわけだけれども、そのときにつき従った家来のなかにこのマツブサを名乗った人がいたのではないかと思うのだ。残念ながら家臣として記録が残っている16人にはそんな名前はない。しかし、その家臣にも家来が付き従ったであろうから、ひょっとして足軽か荷物持ちとしてそんなひとがいたのではないだろうか・・。まあ、それくらいの身分になると名字を持っていたかどうかということが怪しくなるが・・。

真田家が仕えていた武田家は西暦1582年に滅び、その混乱の中、マツブサ一族の一部は福島県のほうに逃げたのかもしれない。そして幸村や付き従った家来たちはその後九度山を抜け出して大阪冬の陣、夏の陣で大活躍をするわけだけれども、僕がここでキーボードをたたいているということは、ご先祖様は大阪には向かわなかったはずである。臆して留まったか、はたまた、大河ドラマの「真田丸」では幸村が九度山を脱出するときに村人を欺くために宴会をしていたシーンがあったけれども、ご先祖様はその村人を欺く役を引き受け泣く泣く九度山に残ったか・・・。
まあ、どちらにしても、その後、ご先祖様は西を目指し水軒の浜に落ち着いた。途中で落ち着いたのが紀ノ川の向うの一党である。そしてその間に濁点も落ちてしまった。

と、いうのが僕の壮大な妄想の結論だ。

いままでは僕のご先祖様は雑賀孫市の家来として強大な権力に立ち向かった人たちの鉄砲の玉込め役くらいはやっていたのではないかという妄想を続けて悦に入っていたけれども、雑賀孫市は一族の困ったちゃんではなかったのかという疑惑が浮かんでしまった今、豊臣家への忠義を最後まで貫いた武士の鑑、義の人であった幸村の家来のそのまた家来であったというほうがかっこいいのではないかと新聞の1行を読んで宗旨替えをしてしまったのであった。


そして、そのマツブサという植物はいったいどんなものか探してみようと思い立って森の中を探検したというのが、前回書いたブログの②番の行動だったのである。
まあ、探検といっても体力のない僕の足ではやれることは知れている。章魚頭姿山の山頂へ向かう歩道を歩きながら両側の森を観察するだけだ。



マツブサというのは古くなってくると木肌のコルク質が松のようにひび割れてくるというのが特徴らしい。葉っぱはたしかにシキミに似ている。それをたよりに木々の間を探してみるがそれらしきものが見当たらない。意外とたくさんの蔓植物は見えるのだが、まず葉っぱというのは森の木々の幹の間には一枚もない。考えてみると当たり前でこんなに光が当たらないところで葉っぱを出しても光合成ができるわけでなく効率が悪いから当然だ。蔓の根元を眺めてひび割れているものは見えない。こんどは蔓を辿って上の方を見上げるが視力が悪くて先の方まで見えない。森の中の木はどの木も大きいから7,8メートルくらいの高さがある。蔓もそこまで伸びているのでもうボ~っとしか見えないのだ。そして季節が悪いので葉はすべて落ちてしまっているようだ。



結局何もわからずに森をあとにすることとなった。ただひとつわかったのは、蛇のように木の幹にからみついた蔓は森をより不気味に演出しているということだ。
木の幹や枝にからみついて伸びる蔓は最終的に森の木よりもさらに高いところまで伸びている。藤原鎌足が天皇にまとわりついてそれよりも上に伸びてやろうとしたというのもこれを見るとさもありなんと思えた。



本物のマツブサ探しは春の山菜採りまでお預けだ。
コメント (2)
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