イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「開高健のパリ」読了

2020年02月20日 | 2020読書
開高 健 /著 モーリス・ユトリロ /イラスト  角田 光代 /解説 山下郁夫/写真

師は旅の人でもあった。そしてその端緒となったのは逃避願望であった。「ここではないどこかへ」ひたすらそれを願って日本を抜け出したいと考えていた。そしてそれが実現したのが小説家として世間から認められてからになる。この本はそんな師の旅の中でもパリにまつわる文章を集め、なおかつユトリロの絵を随所にちりばめた編集がされている。
ユトリロとはどんな画家であったかということも知らず、師とのかかわりもまったく知らなかった。師はユトリロの画集(1961年出版)の出版に際してそれぞれの作品に解説を加えていたそうなのだがこの画家に作家がどれだけのエンパシーを持っていたかということも僕は知らない。
また、この本に集められた師の文章には収録されている絵画への解説以外にはユトリロに関連するようなものはほとんど収録されていないので僕の知識では師の思い入れ具合がわからない。
パリ、それもモンマルトル周辺の街並みを題材にしたその絵には人物がほとんど書かれていない。しかしながらその建物群の窓はどれも開けられた状態で描かれている。それはまるで何かの理由で忽然と人が消えてしまったかのようだ。
ユトリロの人生と、「白の時代」と言われる頃の作品を通して想像できるのはユトリロという人も、きっと、「人嫌いなのに人間から離れられない」のだ。だから人の生きる場所でしか自分も生きることができない、ひとのぬくもりを感じていなければ生きてゆけそうにないでも人が描けない。そんな人であったのではないだろうかということである。
だから人の残り香やわずかな体温のぬくもりが残っているような絵にあらわされる。でも、人と真正面からは相対したくはない。それが、全体に感じるもの哀しさにつながっているのではないかと素人の感想ではあるけれどもそう思うのである。
師も同じで、少年期からの苦労の連続と創作の苦痛から「人嫌いなのに人間から離れられない」生き方を送ってきた。そこに小さいながらも共通点を見いだせるのかもしれない。

この本を手に取った時には師の文章ではあるけれども美術に対する知識はマイナスレベルでましてやユトリロって誰だ?名前くらいは高校時代の美術の授業で聞いたことがあったのかしら?というくらいだから読んでいても何の感想も浮かんでこないのではないだろうかと心配していたが、掲載されている文章は何度かにわたる師のパリでの滞在生活が書かれていたものであった。
これらもほとんどは以前に読んだことがあり、いくつかの場面はいまだに記憶に残っていた。パリの学生街の小さな下宿を借りて下町を夜な夜な徘徊し、夜明け頃に疲れ果てて戻ってくる。またはバカンスで人がいなくなった街中をさまよう。そこにはパリの華やかな姿はうかがえない。でも、そこには濃厚な人の息遣いが感じられる。ひょっとしてそういうところに編集者が見たユトリロと師の共通点があったのだろうか。

今週のスカーレット第117回では小池アンリがこんなセリフ言う。
「人生を豊かにするものって何や? 芸術や。」
そして喜美子との共同生活を終えてパリへ旅立つという。喜美子も誘われてどうしようかと迷うのであるけれども、何かを創造する人たちというのはどうしてパリを求めるのか。
その一端はユトリロと師が見た、沈み込むようなパリと煌びやかで何の屈託もない景色のパリの2重構造にあるのかもしれない・・。
コメント
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