イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

水軒沖釣行:ボウズだったけど代わりにひとつの謎が解けた。

2022年01月04日 | 2022釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 7:31満潮
釣果:ボウズ(不戦敗)

2日、3日と出勤し、今日は初釣りと決めていた日だ。しかし、天気が怪しい。これは年末と同じ状況で、前の日までは天気がよくて休日の朝くらいまではなんとか船を出せそうかどうかという微妙な雲行きになってきたというのはまったく同じだ。
昨日までは冬型でも等圧線の間隔が相当広かったが、昨夜の予報を見ているとその間隔が狭くなってきている。それでも救いは紀伊半島の部分だけ少し等圧線の間隔が広くなっていることだけである。
去年の12月30日は朝起きて新聞を取りに表へ出た瞬間に今日はダメだと布団に戻ったが元々初釣りは港周辺の神社への初詣を兼ねているのでとりあえず家を出た。風の吹き方も30日に比べれば体感的には穏やかな気がする。

しかし、港に行ってみると西混じりの嫌な風だ。真っ暗な海面に街灯に反射する白い波が目立つ。これが東混じりの風なら何の心配もないのだが・・。
少し明るくなってくれば状況も変わるかと年末の大風に備えて増やしていたロープを解いたり燻製器と同時進行で作っていた細工の寸法を確かめてみたりしながら明るくなるのを待っていた。



港に来る途中に見える奥の港では車のランプが光っているのが見えていたが一向に船が出てくる気配もないので、みんな逡巡しているのかと思ったら海竜が2艘連なって出港していった。



波も少し穏やかになったような気もしたので僕も船を出そうと準備を始めた。海の様子を見ながら港内を走るが、コンテナクレーンの前を通り過ぎた頃には、もうこれ以上はダメだと撤退を決意。初釣りは竿を振ることもなく15分で終了してしまった。



今日の予定は初春の運だめしとしてブリを狙ってやろうと考えていた。同じ港のTさんが教えてくれたのだが、紀ノ川河口でブリが釣れているというのを年末に聞いていた。
1年間のある時期の2週間ほど、紀ノ川河口にコノシロの群れを追ってブリが入ってくるというのだ。釣り方というと、ルアーのフックに錘を付けた仕掛けでコノシロを引っ掛けて少し待つという、食物連鎖を具現化したような釣り方だ。



一昨年の年末にも禁断の仕掛けでブリを釣っている人がいるということを教えてくれたので、その2週間というのは年末年始に当たるようだ。
タックルも丈夫なものにしようというわけではないが、去年拾った竿とリールのリーダーを10号のナイロンに変更して準備をしていた。
結局、くじを引く前に終わってしまったのであるが、一度はブリを掛けてみたいと思うのである。


あっという間に港に戻ってきたので初詣は午前7時45分からスタート。
まずは氏神様である住吉神社へ。



お参りに行くと、氏子らしき人たちが初詣の後片付けをしていた。挨拶を済ませて雑賀崎へ向かおうとしたが、ふと、この人たちにあの謎の鳥居のことを聞けば何かわかるのでは思った。



3人のうちのひとりをつかまえて聞いてみると、あの鳥居は、金毘羅神社の跡なのであると教えてくれた。僕の予想とはまったく違ったのである。確かに、住吉神の右隣に金毘羅神が鎮座している。この神様のもと居た場所があそこだったのだ。神社合祀というのは明治末期にさかんにおこなわれたことだというので、叔父さんたちもあの鳥居については謎であったのだろう。僕の祖父に聞いたとしてもおそらく子供の頃の出来事でよくわからないとなっていたほどなのかもしれない。
「あんなところに鳥居があるなんてよく知ってるな。」と言われたので、僕はマツフサという名前で本家はすぐそこにあって、僕も昔ここに住んでいたというようなことを説明したが、あまりピンときていないようだった。祖父の兄弟という家系も近所にあるので、そっちの一統と間違えられる始末だ。僕の祖父は箪笥職人もしていたので、祖父はここのお稲荷さんの鳥居も昔作ったことがあるんですよと言っても、もう、そんなことは誰も知らないようだった。
これはちょっと寂しい・・。

加えて、この氏神様はいつごろかここに鎮座していたのかについて、鳥居には安永六年(西暦1777年)、灯篭には安永四年(西暦1775年)の文字が刻まれているんですよと教えてくれた。

 

1775年というと、今から245年前だ。調べてみると、徳川家では11代目の将軍、杉田玄白が「解体新書」を書き、西洋では天王星が発見された頃だそうだ。水軒堤防の初期の造営は徳川頼信が紀州にやってきてからだそうだから1600年代の中盤くらいの約400年前。そのころから紀ノ川の砂州であったこの場所に人が住み始めることができたのだとしたら245年前よりももっと昔にこの神社は鎮座していたのかもしれない。全然想像がつかないが、間違いなく時代劇に出てきそうな農民や漁民がここを歩いていたのだと思うと不思議な気がする。
そしてきっと、その中に僕のご先祖もいたのかと思うともっと不思議な気がするのだ。

その後はいつものルートをたどって神社を巡った。住吉神社は安永四年と知ったので、今回の初詣はほかの神社はいつごろからそこにおわしたのかというのも調べてみようと思った。
東照宮は今年が四〇〇年祭をするというので400年前に建てられたということがわかるし、天満宮は菅原道真が亡くなったのち、西暦964年ごろに造営されたという記録が残っているらしいが、雑賀崎、田ノ浦、和歌浦のエビス様などうなんだろう。それぞれの神社の鳥居や灯篭に刻まれた文字を見てみたが、雑賀崎恵比寿神社の灯篭の文字はまったく読めない。田ノ浦恵比寿神社の灯篭には文化十二年と読めるような読めないような文字が書かれていた。



だとすると西暦1815年ということになる。ペリーが浦賀に来る40年ほど前という、もうすぐ開国だという頃なので、これはきっと後年に作られたものなのだろう。港としては水軒の港よりも使いやすくて安全だからきっとこっちの神様のほうが古いに違いない。和歌浦の灯篭は新調されているようで平成の年号が書かれていた。しかし、ここの蛭子様は一説では室町時代からここにおわすと言われているらしい。平安時代の和歌がいたるところで読まれているのだからもっと古いかもしれないし、いくつかある“エビス”の文字のうちでも“蛭子”と書かれた神社は古いと聞いたことがある。

どれにしても、時を超えて変わらず伝えられてきたものというのは知れば知るほど重みを感じるのであるが、一方で数が減り温暖化や地形の変化で多少は変わりながらも、はるか以前から何も変わらず魚たちは泳いでいる。結局、神様も正月を含めた暦も人が創り出したものに過ぎない。所詮時の流れに抗うことはできず朽ち果て忘れ去られ形を変えてゆくしかない。「年年歳歳花(魚)相似 歳歳年年人不同」ということを実感した年初であった。

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